柴国柱
柴 国柱(さい こくちゅう、1568年 - 1625年)は、明代の軍人。字は擎霄、号は峨峰。本貫は西寧衛清水堡。
生涯
[編集]柴伯林と趙氏のあいだの長男として生まれた。万暦年間、代々の蔭官により任用され、西寧守備をつとめた。勇猛で弓射を得意とした。1595年(万暦23年)、参将の達雲に従って西寧の南川でヨンシエブを討ち、その武勇は軍に冠絶した。軍功を記録されて、都指揮僉事に進んだ。西辺で侵入があるたびに、国柱がこれを撃退した。しばらくして涼州副総兵に進んだ。
明が松山を奪回すると、堡を建てて斥候を置き、諸部の侵攻があるたびに、国柱が出撃して撃退した。1605年(万暦33年)、松山部の銀定・歹成が兵を率いて鎮番に進攻してくると、国柱は救援に駆けつけ、200人をあまりを斬首し、馬や武器を大量に鹵獲した。1604年(万暦34年)、青海部が鎮羌堡・黒古城の諸堡に侵入し、守備の楊国珍は防御できなかったことから、国柱は游撃の王允中らを率いてこれを撃退した。1607年(万暦35年)、銀定・歹成が河西を侵犯すると、国柱はこれを迎撃し、120人の首級を得た。署都督僉事・陝西総兵官に抜擢された。
1608年(万暦36年)春、国柱は甘粛に転出した。銀定・歹成が永昌に侵攻すると、国柱は駆けつけて会戦し、これを破った。麻山湖まで追撃し、160人あまりを斬首した。その部落が再び侵入して、守備の鄭崇雅らが戦没すると、国柱は敗戦の罪に問われて俸給1年分を減給された。オルドス部と松山部が共同して侵入してくると、国柱は諸将に指示して道を分けて迎撃し、160人を斬首した。しばらくして右都督の位を加えられ、指揮僉事の世襲を認められた。長らくを経て、官を罷免された。
1618年(万暦46年)夏、僉書都督府事として北京に召還された。ほどなく杜松に代わって山海関に駐屯した。1619年(万暦47年)、杜松が敗死し、チャハルのリンダン・ハーンが機に乗じて国境を侵犯すると、国柱らは奮戦してこれを防いだ。1620年(万暦48年)、瀋陽に転出した。病のため帰郷した。天啓初年、辺境での軍功を追って記録され、左都督の位を加えられた。1625年(天啓5年)、死去した。享年は58。
子女
[編集]参考文献
[編集]- 『明史』巻239 列伝第127
- 大明特進光禄大夫柱国少保鎮守甘固山海掛平羌征夷両将軍印総兵官中軍都督府左都督峨峰柴公奉勅諭葬墓誌銘(柴国柱墓誌)
- 明故龍虎将軍都督僉事維実柴公墓誌銘(柴時秀墓誌)