柿並弘慶
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 長禄4年(1461年) |
死没 | 大永7年6月28日(1527年7月26日) |
改名 | 大内千代丸(幼名)→大内弘慶→柿並弘慶 |
別名 |
通称:八郎 号:入道法橋柿阿 |
官位 | 佐渡守 |
主君 | 大内政弘→義興 |
氏族 | 多々良姓大内氏庶流柿並氏 |
父母 | 父:大内教幸、母:鷲頭弘忠の娘 |
兄弟 | 女(南昌寺理尊)、大内加嘉丸、大内師子丸、柿並弘慶、山口任世 |
子 | 隆幸 |
柿並 弘慶(かきなみ ひろよし)は、戦国時代の武将。大内氏家臣。父は大内教幸。兄弟に牛久山口氏の祖となった山口任世がいる。
生涯
[編集]応仁の乱の最中の文明2年(1470年)2月、将軍・足利義政は大内教幸(道頓)を大内氏当主と認め、本来の当主である大内政弘を討つよう命じた。法体の教幸に代わって、嫡男の大内加嘉丸が守護職に補任されたが、教幸は同年12月に挙兵した陶弘護に周防国玖珂郡で敗北。敗れた教幸は安芸国で仁保盛安と合流して石見国に転戦、さらに長門国阿武郡の賀年城を拠点に反攻しようとしたが、翌文明3年(1471年)12月に再び敗れて豊前国に落ち延びた(大内道頓の乱)。
この時期の弘慶(当時は千代丸)の動向は不明であるが、後に長門国阿武郡川上村の柿並谷に居住して、苗字を「大内」から「柿並」に改めた。また、「弘慶」という諱も、大内政弘から「弘」の偏諱を与えられたものとされる。
その後、弘慶は大内政弘・義興の2代に仕え、大永7年(1527年)6月28日に死去。享年67。子の隆幸が後を継いだ。