栗村左衛八
くりむら さえはち 栗村 左衛八 | |
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東京築地教会時代の栗村(33歳) | |
生誕 |
1849年7月20日 日本、会津若松 |
死没 |
1929年5月17日(79歳没) 日本 |
墓地 | 日本キリスト教団本庄教会の墓地 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 日新館 |
職業 | 武士、牧師(日本メソジスト教会) |
配偶者 | 小山さい子 |
栗村 左衛八(くりむら さえはち、嘉永2年6月1日(1849年7月20日) - 昭和4年(1929年)5月17日)は、日本メソジスト教会の最初の日本人伝道者の一人、後に同教団の牧師。会津藩士。1878年(明治11年)6月12日日本最初のキリスト教式結婚式を挙げた人物として知られる。
生涯
[編集]会津藩士時代
[編集]会津藩士荒木進三郎の次男として会津若松に生まれる。1864年(元治元年)に栗村家を継ぐ。1868年(慶応4年)会津戦争に従軍する。東京で謹慎処分を受けた会津藩士の一人として名前が載っている[1]。
1873年(明治6年)の廃藩置県の後で、横浜に行き蓮卒(警察官)になる。横浜で教会に行き、キリスト教に回心する[注釈 1]。
日本メソジスト教会時代
[編集]1875年(明治8年)にロバート・S・マクレイに就いて神学を治める。
1877年(明治10年)、横浜で開かれた第4回美以宣教師年会で栗村と飛鳥賢次郎、工藤友也、菊池卓平、阿部賢郎、小杉良平、相原英賢を合わせた9名が、米国年会に允許によって、最初のメソジスト派の日本人伝道者に任命された[2]。
伝道者の准允を受けると、福富町講義所で伝道をする。1878年(明治11年)に執事按手礼を受ける。この年の6月12日、R・S・マクレイと長老派の宣教師J・H・バラの立ち合いのもとで、日本基督公会(現、日本キリスト教会横浜海岸教会)で桑名藩士小山正武の妹いさ子と結婚式を挙げる[注釈 2][3]。
1881年(明治14年)に名古屋教会(現、日本キリスト教団名古屋中央教会)の初代牧師に就任する[4]。1882年(明治15年)に東京築地教会に赴任する。
1883年(明治16年)に長老の按手礼を受ける。また、この年第三回全国基督教信徒大親睦会に幹部として参加する。
東京英和学校(現・青山学院大学)の設立にも参与として尽力する。1884年(明治17年)に日本メソヂスト横浜教会牧師、1887年(明治20年)には熊本メソヂスト教会(現・日本キリスト教団熊本白川教会)、久留米教会(現、久留米東町教会)、福岡教会(福岡中部教会)、鹿児島教会(現・日本キリスト教団鹿児島加治屋町教会)、名古屋第二教会、戸部(現・日本キリスト教団横浜上原教会)、八戸(八戸小中野教会)を歴任する。
1904年(明治37年)には青森教会(現・日本キリスト教団青森教会)[5] に赴任して1914年まで青森で牧会する。その後、茨城県水海道町(現・常総市)、千葉県八日市場町(現・匝瑳市)、群馬県佐波郡島村(現・伊勢崎市)の島村教会(現・日本キリスト教団島村教会)などの教会を歴任する。
1925年(大正14年)に牧師を引退して、福岡連回長老、南九州連回長老司などを兼任する。1929年(昭和4年)に死去する。
日本キリスト教団本庄教会の教会墓地に栗村の墓石が残っている。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 東京謹慎者・戊辰の役、殉難の士-会津への夢街道 2016年12月2日閲覧
- ^ 眞山 1987, pp. 6
- ^ 1870-1879の出来事の年表
- ^ 日本キリスト教団名古屋中央教会のHP
- ^ 日本キリスト教団青森教会HP
参考文献
[編集]- 片小沢千代松「栗村左衛八」『日本キリスト教歴史大事典』1988年、465頁。
- 鈴木範久『聖書の日本語 翻訳の歴史』岩波書店、2006年。ISBN 4-00-023664-4。
- 守部喜雅『日本宣教の夜明け』いのちのことば社、2009年。ISBN 978-4-264-02638-9。
- 眞山光彌「在日メソジスト・エピスコパル・ミッションの三河伝道事始」『金城学院大学論集、人文科学編』第20号、1-19頁、1987年。