コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

根岸友山

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
根岸友山

根岸 友山(ねぎし ゆうざん、文化6年11月27日[1]1810年1月2日) - 明治23年(1890年12月3日[1])は、壬生浪士組隊士、庄内藩新徴組取締役。本名、伴七。号は友山。諱は信輔。

生涯

[編集]

1810年(文化6年)豪農根岸信保の長男として、武蔵国大里郡甲山村(現・熊谷市冑山)に生まれる[2]1833年(天保4年)寺子屋三余堂を開き[2]1835年(天保6年)剣術道場振武所を開く[2]。のちに剣術は千葉周作に学んだ[2]1839年(天保10年)の蓑負騒動に加担したため、1841年(天保12年)に江戸十里四方追放となる[2]1855年(安政2年)甲山村に戻る[2]

1863年文久3年)、将軍徳川家茂上洛に伴い江戸幕府によって組織された浪士組に参加[2]近藤勇芹沢鴨らとともに京都に残る。その後、遠藤丈庵清水五一らとともに「伊勢参詣」を理由に壬生浪士組を脱走して江戸に戻り、同年5月19日に庄内藩新徴組取締役(庄内藩と新徴組の連絡係)に就任するがすぐに退任。以後は討幕の意志を固めた。鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が負けると盛大に祝ったという[要出典]。1866年(慶応2年)武州一揆により自宅が襲われた[2]

1868年(明治元年)勤王論を説く『吐血論』を刊行[2]著書中で、当時処刑に対して同情を集めていた近藤勇を痛烈に批判する[要出典]

墓は冑山共同墓地(埼玉県熊谷市)にある。

くまがや市商工会による友山まつりが行われている[3]

演じた俳優

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ a b 〔根岸武香〕「故根岸友山勤王之義ニ付郡長内申及履歴書」『根岸家諸記録』NDLJP:2593577/126
  2. ^ a b c d e f g h i 根岸友山(ねぎしゆうざん)|文武両道の教育に尽力”. 熊谷市立江南文化財センター. 2023年2月23日閲覧。
  3. ^ 友山まつり”. www.city.kumagaya.lg.jp. 熊谷市. 2023年2月27日閲覧。

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]