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桂小文治 (2代目)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
二代目(初代)かつら ぶん
二代目(初代)桂(かつら) 小(こ)文(ぶん)治(じ)
1948年
本名 稲田 裕次郎
生年月日 1893年3月28日
没年月日 (1967-11-28) 1967年11月28日(74歳没)
出身地 日本の旗 日本大阪府
死没地 日本の旗 日本東京都
師匠 七代目桂文治
弟子 五代目古今亭今輔
二代目桂枝太郎
四代目三遊亭圓遊
二代目桂小南
十代目桂文治
二代目桂小金治
九代目土橋亭里う馬
名跡 1.九代目桂小米
(1906年 - 1915年)
2.二代目桂米丸
(1915年 - 1917年)
3.二代目桂小文治
(1917年 - 1967年)
出囃子 野崎
活動期間 1906年 - 1967年
活動内容 古典落語
幇間
所属 三友派
(1906年 - 1916年)
東京寄席演芸会社
(1916年 - 1922年)
三遊柳連睦会
(1922年 - ?)
日本演芸協会
(? - 1933年)
日本芸術協会
(1933年 - 1967年)
主な作品
紙屑屋」「辻占茶屋」「蔵丁稚」など
受賞歴
1961年文部省芸術祭奨励賞
備考
日本演芸協会会長
(? - 1933年)
日本芸術協会副会長
(1933年 - 1967年)

二代目(初代)桂 小文治(かつら こぶんじ、1893年3月28日 - 1967年11月28日)は、大正昭和期に活躍した落語家。本名∶稲田 裕次郎出囃子∶『野崎』。

人物・生涯

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現在の大阪府大阪市港区出身。1906年(明治39年)、7代目桂文治門下となり9代目桂小米[1]1915年(大正4年)、2代目桂米丸襲名。三友派若手の有望株として踊り、声色で活躍する。

1916年(大正5年)10月、東京寄席演芸会社の招きで上京し上席に出演。当初1か月の契約だったのが、そのまま東京に定住。1917年(大正6年)5月、下席から桂小文治に改名し真打昇進。1922年(大正11年)4月、落語睦会に移籍。6代目春風亭柳橋、(俗に)3代目春風亭柳好8代目桂文楽と並ぶ「睦の四天王」の一角として人気を得る。その後日本演芸協会、さらに日本芸術協会(現:落語芸術協会)に加わり、副会長として、会長6代目春風亭柳橋を補佐する。大阪落語の落語家でありながら、東京落語界の幹部となった。 1929年には長女が生まれた[2]

また、小文治は東京に行ったのち、師匠文治の引退興行の時に大阪に顔を出したが、小文治を可愛がっていた4代目橘家圓蔵が引退する文治よりも小文治の宣伝をしたため、小文治の兄弟子初代桂春団治が激怒し、止めに入った小文治を蹴飛ばし、舞台上で圓蔵を罵倒した、それがゆえに大阪へ戻れなくなり、東京に骨を埋めることとなったといわれている。

2代目三遊亭百生と共に、上方落語を東京で紹介した業績は大きい。また、第二次世界大戦後は、衰亡していた上方落語復興のため、当時の若手6代目笑福亭松鶴3代目桂米朝らを支えた。戎橋松竹道頓堀角座にも定期的に出演していた(ただし、肩書きは「東京落語」であった)。

面倒見の良い性格で、他所の門を失敗した落語家を引取ったため、門人も多かった(このため、小文治一門は現在、芸術協会の大半を占め、80名の真打の中で50名以上いる)。

1961年、文部省芸術祭奨励賞受賞。

1967年11月28日死去。74歳没。墓所は寛永寺第一霊園。戒名は生前からすでに用意していた「芸能院小文治居士」。小文治没後の副会長は総領弟子5代目古今亭今輔が就任した。

芸風

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始めは上方仕込の芝居噺や、江戸弁上方弁をミックスした新作落語を演じていたが、晩年は、本格的な上方落語を演じる様になった。早口で、大阪弁をわかりやすく演じるために語尾を体言止めにするなど、落語家としての評価は低かった。得意ネタは芝居噺では『加賀見山』『質屋芝居』『蛸芝居』『蔵丁稚』、音曲噺では『紙屑屋』(1961年度文部省芸術祭奨励賞受賞)『辻占茶屋』『稽古屋』。本格派の落語では『しじみ売り』『木津川』『百年目』『菊江の仏壇』『七度狐』『出歯吉』『正月丁稚』『稲荷車』『鳥屋坊主』『立ち切り』など。踊りの名手で、一席終わった後「目をごらん。」と言いながら躍る『奴さん』『名古屋甚句』などは、寄席の踊りとして絶品であった。

一門弟子

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孫弟子などは小文治一門を参照。

移籍

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廃業

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出演

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  • あなたと私の合言葉 さようなら、今日は(1959年、大映映画)

脚注

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  1. ^ 人事興信録15版か28
  2. ^ 人事興信録15版か28