桜洞城
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桜洞城 (岐阜県) | |
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別名 | 冬城 |
城郭構造 | 平山城 |
天守構造 | 未詳・非現存 |
築城主 | 三木直頼 |
築城年 | 未詳 |
主な改修者 | 三木自綱 |
主な城主 | 三木直頼、良頼、自綱 |
廃城年 | 1585年(天正13年) |
遺構 | 掘立柱建物跡、曲輪、石垣、土塁、空堀 |
指定文化財 | 下呂市指定史跡 |
再建造物 | なし |
位置 |
岐阜県下呂市萩原町萩原字古城 北緯35度52分50.4秒 東経137度12分40.9秒 / 北緯35.880667度 東経137.211361度 |
地図 |
桜洞城(さくらぼらじょう)は、飛騨国益田郡下呂郷桜洞[1](岐阜県下呂市萩原町)にあった日本の城。下呂市指定史跡。
概要
[編集]一般には『飛州志』の記述から戦国大名の三木直頼が築城したとされるが、異説として城址を調査した角竹喜登が『岐阜県史蹟名勝天然記念物調査報告書』第六回(1937年刊)において、直頼の祖父久頼以来の居城で、直頼・良頼の頃に完備したとした[2]。
歴史
[編集]飛騨を支配した三木自綱が天正7年(1579年)に松倉城を築城して居城を移すまでの間、三木家の居城であったが、それ以後は松倉城の支城となって自綱の子信綱が城主となる。
しかし、信綱は謀反の疑いで松倉城にて誘殺された[2]。以後の城主は不明であるが、冬の拠点として用いられて冬城とも呼ばれ、天正13年(1585年)に金森長近に攻められ落城[2]。萩原諏訪城が築かれると廃城になった。
遺構
[編集]- 『飛州志』所載の城図によれば、かつては東西144メートル、南北180メートルの規模で、周囲を空堀に囲まれ、北と東にはさらに二重の空堀が存在した[2]。この城図や現在の遺構のしめすその形状は居館であり、別に詰の山城があったと考えられるが、見つかっていない[3]。
- 現在はJR高山本線の線路が跡地を通り、土塁の痕跡などがわずかに残る。城跡は下呂市の指定史跡となっている[4]。