梅木平古墳
梅木平古墳 | |
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石室開口部 | |
別名 | 梅木平1号墳[1] |
所在地 | 広島県三原市本郷町下北方(字梅木) |
位置 | 北緯34度24分29.88秒 東経132度57分57.80秒 / 北緯34.4083000度 東経132.9660556度座標: 北緯34度24分29.88秒 東経132度57分57.80秒 / 北緯34.4083000度 東経132.9660556度 |
形状 | (推定)円墳 |
規模 | 不明 |
埋葬施設 | 両袖式横穴式石室 |
出土品 | 不明 |
築造時期 | 7世紀初頭 |
史跡 | 広島県指定史跡「梅木平古墳」 |
地図 |
梅木平古墳(ばいきひらこふん)は、広島県三原市本郷町下北方(しもきたがた)にある古墳。形状は円墳と推定される。広島県指定史跡に指定されている。
概要
[編集]広島県東部、沼田川支流の梨和川・尾原川の北岸低丘陵端部に築造された古墳である。現在は墳丘上に仏像2軀を祀る梅慶庵が建てられている。
墳形は円形と推定されるが、規模は明らかでない[2][3]。埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、東方向に開口する。石室全長は13.25メートルを測り、広島県内では最大規模になる[3]。副葬品は詳らかでない[2][4]。築造時期は古墳時代終末期の7世紀初頭頃[4][3](または6世紀末-7世紀初頭頃[5])と推定される。
古墳域は1949年(昭和24年)に広島県指定史跡に指定されている[3]。なお、周辺では御年代古墳・貞丸古墳群などの古墳のほか、白鳳期寺院の横見廃寺跡が残り、当地の豪族と畿内ヤマト王権との関係が指摘される。
遺跡歴
[編集]- 正徳5年(1715年)の「上北方村寺社并名所古蹟改帖」に、梅慶庵と梅慶庵塚の記載[5]。
- 享保3年(1718年)の「豊田郡上北方村指出帖」に、梅慶庵にある塚の記述[1]。
- 文政8年(1825年)の『芸藩通志』所収の「上北方村絵図」に、梅慶庵塚穴(梅木平1号墳:本古墳)と宮仕川塚穴(梅木平2号墳)の記載[1]。
- 1949年(昭和24年)10月28日、「梅木平古墳(梅慶庵)」として広島県指定史跡に指定[3][6]。
- 2012年(平成24年)1月26日、県史跡の名称を「梅木平古墳」に変更、史跡範囲の追加指定[3][6]。
埋葬施設
[編集]埋葬施設としては両袖式の横穴式石室が構築されており、東方向に開口する。石室の規模は次の通り[2]。
- 石室全長:現存13.25メートル[3]
- 玄室:長さ6.3メートル、幅3.0メートル(奥壁部)、高さ4.2メートル(奥壁部)
- 羨道:現存長6.9メートル、幅2.4メートル、高さ1.9メートル
石室は羨道の開口部を欠くため、本来の規模としては上記の値よりも若干延びるが、広島県内の石室としては最大規模になる[3]。玄室の石積みは奥壁で3段、側壁で3-4段とし、側壁は天井部で幅1.9メートルまで持ち送る[2]。玄室部と羨道部の間は左右両側の立石で区画され[2]、その形態から羨道部を前室、玄室部を後室とする複室構造の石室と解する説もある。玄室・羨道とも各4枚の巨大板石を天井石とし、玄室天井・羨道天井の高低差が大きい形態とする。
なお、本古墳のように両袖式で袖石が突出する形態の石室は、中国・四国地方の瀬戸内海沿岸部を中心に分布し、「角塚型石室」と捉えられる[7]。
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墳丘と梅慶庵
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玄室(奥壁方向)
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玄室(羨道方向)
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羨道(玄室方向)
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羨道(開口部方向)
文化財
[編集]広島県指定文化財
[編集]- 史跡
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 史跡説明板(広島県教育委員会・旧本郷町教育委員会設置)
- 「梅木平古墳」『広島県の地名』平凡社〈日本歴史地名大系35〉、1982年。ISBN 4582490352。
- 小都隆「梅木平古墳」『日本古墳大辞典』東京堂出版、1989年。ISBN 4490102607。
- 「梅木平古墳」『三原市の文化財』三原市教育委員会、2016年。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 梅木平古墳 - 広島県教育委員会「ホットライン教育ひろしま」