貞丸古墳群
貞丸古墳群(さだまるこふんぐん)は、広島県三原市本郷町南方(みなみがた)にある古墳群。2基が広島県指定史跡に指定されている。
概要
[編集]広島県東部、沼田川支流の尾原川の北岸丘陵斜面に築造された古墳群である[1]。古墳2基(いずれも円墳か[1])から構成される。
古くは南方村の「国郡志下調書出帳」に油塚(1号墳)として記載が見える[1]。2基は約20メートル離れて所在し、いずれも埋葬施設を横穴式石室とする。石室はいずれも南方向に開口し、石室構造・規模や内部に家形石棺を据えるなど多くの類似点が認められる[2]。
1号墳・2号墳の古墳域は1949・1950年(昭和24・25年)に広島県指定史跡に指定されている。
一覧
[編集]1号墳
[編集]貞丸1号墳 | |
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墳丘・石室開口部 | |
別名 | 貞丸古墳 |
所在地 | 広島県三原市本郷町南方 |
位置 | 北緯34度23分43.05秒 東経132度56分38.75秒 / 北緯34.3952917度 東経132.9440972度 |
形状 | 不明 |
埋葬施設 |
横穴式石室 (内部に刳抜式家形石棺1基) |
築造時期 | 7世紀前半 |
史跡 | 広島県指定史跡「貞丸古墳」 |
貞丸1号墳は、三原市本郷町南方の大日堂の西側にある古墳。
埋葬施設は横穴式石室で、南方に開口する。玄室・羨道からなるが羨道部は破壊され失われており、玄室部のみ残る[3][4]。玄室は現存で長さ4.37-4.97メートル、幅2.09メートル、高さ2.15メートルを測り[3][5]、開口部には板石の立石による柱状間仕切りを設ける[1]。そのため、玄室前を羨道でなく前室とした複室構造とみる説もある[2][5]。
玄室内部には兵庫県加古川流域産の成層ハイアロクラスタイト[6](竜山石)製の刳抜式家形石棺の身部(長さ2.15メートル、幅1.15メートル、高さ0.6メートル)を据える[3][4]。蓋石の所在は明らかでない[3][4][5]。また副葬品も詳らかではない[1]。
築造時期は古墳時代終末期の7世紀前半頃と推定される[3][5]。
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石室俯瞰図
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石室展開図
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石室内部(奥壁方向)
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石室内部(開口部方向)
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石棺
2号墳
[編集]貞丸2号墳 | |
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墳丘・石室開口部 | |
別名 | 貞丸第二号古墳 |
所在地 | 広島県三原市本郷町南方 |
位置 | 北緯34度23分43.68秒 東経132度56分38.25秒 / 北緯34.3954667度 東経132.9439583度 |
形状 | 不明 |
埋葬施設 |
横穴式石室 (内部に組合式家形石棺1基か) |
築造時期 | 7世紀前半 |
史跡 | 広島県指定史跡「貞丸第二号古墳」 |
貞丸2号墳は、1号墳の北約20メートルにある古墳。
埋葬施設は横穴式石室で、南方に開口する。玄室・羨道からなるが羨道部は破壊され失われており、玄室部のみ残る[3][4]。玄室は現存で長さ5.1メートル、幅2.12メートル、高さ1.97メートルを測る[3][7]。
玄室内部には組合式家形石棺があったと伝わる。現在その所在は明らかでないが、一説には大日堂境内の石碑台石として使用されている、縄掛突起を付す凝灰岩製家形石棺蓋石が使用棺として推測される[3][7][4]。また同石のそばには小口石と推定される石片があり[7][4]、その他にも南方神社境内で組合式家形石棺の破片が遺存する[1][7]。
築造時期は古墳時代終末期の7世紀前半頃と推定される[3]。
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石室俯瞰図
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石室展開図
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石室玄室(奥壁方向)
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推定石棺蓋石
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参考画像:南方神社境内の二本松古墳組合式石棺(三原市指定文化財)
小口石は復元。
文化財
[編集]広島県指定文化財
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 史跡説明板(広島県教育委員会・旧本郷町教育委員会設置)
- 「貞丸一号古墳・貞丸二号古墳」『広島県の地名』平凡社〈日本歴史地名大系35〉、1982年。ISBN 4582490352。
- 小都隆「貞丸1号墳」『日本古墳大辞典』東京堂出版、1989年。ISBN 4490102607。
- 『三原市の文化財』三原市教育委員会、2016年。
- 「貞丸古墳」、「貞丸第2号古墳」。