森下貞義
もりした さだよし 森下 貞義 | |
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生誕 |
1915年 東京府荒川 |
死没 | 2001年3月(85歳没) |
国籍 | 日本 |
職業 | 紙芝居師 |
時代 | 昭和 - 平成 |
団体 | 紙芝居児童文化保存会 |
親 | 森下貞三 |
親戚 | 森下昌毅(甥) |
家族 | 森下正雄(弟) |
受賞 | 東京都紙芝居コンクール 特選(1953年) |
森下 貞義(もりした さだよし、1915年〈大正4年〉[1] - 2001年〈平成13年〉3月[2])は、日本の紙芝居師。東京府荒川出身。父は紙芝居師の森下貞三、弟も同じく紙芝居師の森下正雄[3]。
17歳のとき、ごく自然に父と同じ紙芝居師の仕事に就いた[3]。当時は日本全国の紙芝居師の数は5万人ともいわれる、紙芝居の全盛期であった[1][4]。
戦中は仕事を中断したものの、1948年(昭和23年)に復帰。この頃が紙芝居の第2のピークであり、東京だけでも3000人以上の紙芝居師がいた[1]。1953年(昭和28年)、東京都紙芝居コンクールで特選に選ばれた。前年の同コンクールで弟の正雄も特選に選ばれていたことで、紙芝居一家として有名になった[3]。
しかし、この1953年はテレビ放送開始の年でもあった。テレビの普及、および貸本屋の林立と共に、紙芝居に集まる子供たちは激減した[3]。紙芝居師の数も200人以下にまで減少した[1]。時代に逆らうことができず、受賞の5年後の1957年(昭和33年)、紙芝居を廃業し、ガラス加工の仕事に転職した[1][3]。
1986年(昭和61年)、70歳でガラス工から退職。生活のためにと、再び紙芝居を始めた[4]。かつての紙芝居全盛期には及ばない人気だが、独特の抑揚をつけた台詞、登場人物に合せた声色、テレビにはない素朴さが好評を得た。オリジナルの駄菓子も人気であった[1]。また弟の正雄、昔からの仲間である紙芝居師の梅田佳声と共に、父の時代からの紙芝居を守る「紙芝居児童文化保存会」で、紙芝居文化を残すために、該当紙芝居の実演で各地を回るなど、努力を続けた[1]。
1990年(平成2年)には胃癌の手術で胃の3分の2を摘出したが、それを感じさせないほどの元気さで紙芝居の仕事を続けた[4]。80歳を過ぎた1999年においても、東京でただ1人の街頭紙芝居屋として活躍していた[5]。2001年(平成13年)3月、85歳で死去した[2]。没後、紙芝居の舞台は森下正雄の弟子の佐々木遊太に受け継がれた[6]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g 高土新太郎「森下貞義さん 水飴買って黄金バット…。自転車の紙芝居おじさんが残っていた。」『アミューズ』第47巻第22号、毎日新聞社、1994年7月13日、6-7頁、大宅壮一文庫所蔵:200135650。
- ^ a b 石井知明「TOKYO発 街角100年 紙芝居 隆盛の裏に恐慌、戦争 一時は全国5万人」『中日新聞』中日新聞社、2015年5月15日、朝刊、26面。
- ^ a b c d e 西島大美「ひゅーまん探訪 森下貞義・正雄さん兄弟 ガン克服、二人三脚紙芝居」『読売新聞』読売新聞社、1992年11月1日、東京朝刊、14面。
- ^ a b c 川口裕之「自作の舞台で夢づくり 紙芝居おじさん、今日も拍子木 荒川の森下さん」『毎日新聞』毎日新聞社、1994年2月26日、東京朝刊、23面。
- ^ 伍東道生「伝統伎おじゃまウォッチング 紙芝居編」『小説club』第52巻第11号、桃園書房、1999年8月1日、20頁、NCID AA11834629。
- ^ “「幼い日 心はずむ街」 東京・日暮里界わい”. 日本放送協会 (2012年11月30日). 2013年4月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月4日閲覧。