森徳治 (海軍軍人)
森 徳治 | |
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生誕 |
1891年9月24日 日本 福島県 |
死没 | 1983年6月3日(91歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1912年 - 1946年 |
最終階級 | 海軍少将 |
森 徳治(もり とくじ、1891年(明治24年)9月24日[1] - 1983年(昭和58年)6月3日[1])は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。位階勲等功級は従四位勲二等功三級[2][3]。
経歴
[編集]福島県出身[2]。1912年(明治45年)7月、海軍兵学校第40期を卒業し[2]、1913年(大正2年)12月に海軍少尉に任官した[2]。「磐手」「霧島」「周防」各乗組などを経て[2]、1919年(大正8年)12月、海軍大尉に進級して海軍砲術学校高等科学生となった[2]。その後、「桜」「橘」各乗組[2]、「韓崎」分隊長[4]、「第17潜水艦」長兼「第12潜水艦」長[4]、「第33潜水艦」長心得等を歴任し[4]、1923年(大正12年)12月に海軍大学校甲種学生(第23期)となった[4]。1925年(大正14年)12月に海軍少佐に進級し[4]、「呂号第57潜水艦」長に着任し[4]、その後は海軍水雷学校教官などを務めた[4]。1931年(昭和6年)12月に海軍中佐に進級し[4]、「宇治」艦長[4]、第3艦隊参謀[4]、海軍省軍事普及部委員などを歴任した[4]。
1936年(昭和11年)12月に海軍大佐に進級し[4]、内閣情報部情報官を務めた後に[4]、「大鯨」艦長[4]、「八重山」艦長兼第11砲艇隊司令を歴任[4]。1938年(昭和13年)12月に大湊要港部参謀長に転じ[4]、1940年(昭和15年)11月に「摂津」特務艦長を経て[4]、1941年(昭和16年)9月に舞鶴人事部長兼舞鶴鎮守府人事長に就任した[4]。1942年(昭和17年)5月に海軍少将に進級し[4]、1943年(昭和18年)5月に支那方面艦隊司令部附となり[4]、1944年(昭和19年)8月に上海方面特別根拠地隊司令官に着任[4]。上海及び周辺海域の守備に任じ、終戦を迎えた[1]。1946年(昭和21年)4月30日に予備役編入[4]。
年譜
[編集]- 1912年(明治45年)7月17日 - 海軍兵学校卒業、宗谷乗組[2]
- 1913年(大正2年)
- 1914年(大正3年)
- 1915年(大正4年)
- 1916年(大正5年)
- 1917年(大正6年)12月1日 - 第3潜水艇隊附[2]
- 1918年(大正7年)
- 1919年(大正8年)
- 8月5日 - 第11潜水隊附
- 12月1日 - 海軍大尉、海軍砲術学校高等科学生[2]
- 1920年(大正9年)12月1日 - 桜乗組[2]
- 1921年(大正10年)
- 1922年(大正11年)1月20日 - 兼第12潜水艦長[4]
- 1923年(大正12年)
- 1925年(大正14年)12月1日 - 海軍少佐、呂号第57潜水艦長[4]
- 1928年(昭和3年)12月10日 - 海軍水雷学校教官[4]
- 1930年(昭和5年)6月1日 - 兼海軍通信学校教官[4]
- 1931年(昭和6年)12月1日 - 海軍中佐[4]
- 1932年(昭和7年)
- 1934年(昭和9年)10月22日 - 第3艦隊参謀[4]
- 1936年(昭和11年)
- 1937年(昭和12年)
- 1938年(昭和13年)
- 1940年(昭和15年)11月28日 - 摂津特務艦長[4]
- 1941年(昭和16年)
- 1942年(昭和17年)5月1日 - 海軍少将[4]
- 1943年(昭和18年)5月5日 - 支那方面艦隊司令部附[4]
- 1944年(昭和19年)8月18日 - 上海方面特別根拠地隊司令官[4]
- 1946年(昭和21年)4月30日 - 予備役[4]
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 福川秀樹 編著『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。ISBN 482950272X。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500034。
- 海軍歴史保存会 編集『日本海軍史 第10巻』海軍歴史保存会、1995年。