森田節斎
森田 節斎 | |
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生年 | 1811年 |
生地 | 大和国(現在の奈良県) |
没年 | 1868年9月12日 |
没地 | 六角獄舎 |
思想 | 尊王攘夷 |
活動 | 倒幕 |
記念碑 | 粉河町荒見 |
影響を受けたもの | 森田文庵、頼山陽 |
影響を与えたもの | 吉田寅次郎(吉田松陰) |
廟 | 磯城郡田原本町・極楽寺霊園 |
森田 節斎(もりた せっさい、1811年〈文化8年〉- 1868年9月12日〈慶応4年7月26日〉)は、幕末の医師、思想家、儒学者、教育家。元々は医師の父親の元で生まれたが、教育家としても活躍した。幼少期は素足で歩いたり、帯が解けていても結ばないと言う由来から、住民からは「森児の三一」と呼ばれていた。後に、歴史家である頼山陽も節斎の才能を激賞するなど、弟子に吉田松陰などがいる。晩年には称は山外節翁、号は五域愚庵と改名したが、六角獄舎で会食中に毒を盛られ死亡した。
概要
[編集]森田節斎は、日本の儒学者、思想家である。幼少期は、長男と父親が死去、その後は学問に専念したが、帯が解けても結ぼうとはせず、素足で外を出歩いたりする事が由来で、住民から「森児の三一」と、あだ名がついていたが、後に頼山陽も激賞するほどの才能を発揮。また、昌平坂学問所を去ったあとは安井息軒、塩谷宕陰、野田笛浦の儒学者達と知り合うまでになっていた。その後は次々と、自分の弟子や、志士達が投獄されるため、志士達と倒幕運動を起こそうとしたが、幕府に疑われ、一度藤江村に身を潜める。しかし、その後は倉敷市で学校を創立。塾も開く。その後も自らの才能を発揮したが、幕府の捜索が高まるばかりであった。そのため、晩年には山外節翁と称し、五域愚庵と号した。しかし、獄舎で、毒入りの料理を口にし死亡。その後は、記念碑が建てられ、現在は県の文化財となっている。近代化な日本を目指すために、少なからずの影響を与えたうちの一人である。
生涯
[編集]幼少期
[編集]1811年11月ごろに大和国(現奈良県)に医者の森田文庵の元で生まれる。義兄が二人おり、後妻が入り、弟二人が生まれた。
(因みに、現在「森田節斎宅跡」と言う名で、県の文化財として残されている。)しかし長男が早く死去、その後は四人兄弟として育てられた。11歳のころに父親が死去、その後は母親の専念で学問を学ばせた。その後、母親(森田千代)は五条代官所から褒賞された。四人とも学問に専念し、節斎を除く三人は皆慧敏であったが、節斎は、帯が解けても結ぼうとはせず、素足で外を出歩いたり、友人と遊ぼうともしなかったことが由来し、住民からは「森児の三一」と呼ばれていた。森児とは森田家の子供と言う意味で三一の三は、節斎を除く三人の子供、一は節斎の意味である。その後、医術のためには兄と共に猪飼敬所のもとで学び、やがて頼山陽のもとで学ぶようになった。その後は頼山陽を尊敬しながら頼山陽の塾に通い、頼山陽も激賞するほどの才能を発揮した。その後は江戸に入り昌平坂学問所へ行く。後に古賀侗庵から学んだとされている。また、3年後には多くの学業に進んだ。
学問
[編集]1830 - 1831年(天保2年)21歳になった節斎は昌平坂学問所を去り、四方に移動。その後は哲学者である安井息軒や儒学者である塩谷宕陰、漢学者である野田笛浦と交わった。しかし、1836 - 1837年(天保8年)に母親が死去。その喪に服して、止まること数年、34歳になった節斎は誓願寺で弟子を取り学問を開いた。このころから、激しい文才から「弁難攻撃余力を残さず」とも言われていた。また、幕末に行われた尊皇攘夷論では総帥なども努めていた。その弁論から、「言簡なりと雖も、辛刻骨を貫き、諷刺腸をえぐる」と評られるなど、「言論、文章とも一世を震い、名声海内に鳴る」などとの記録も残っている。また、節斎と関わった幕末の志士には梅田雲浜、頼三樹三郎、宮部鼎蔵がいる。また、門下生には、吉田松陰、那珂通高、乾十郎、久坂玄瑞、安元社預蔵、原田亀太郎、万才庄助らがいた。しかし、門下生である松陰が自首。そのため獄中にいた松陰だが、しばしば詩などを送っていた。 その後、勤王の志士が相次いで投獄されるため、梅田雲浜、春日潜庵と協力し、幕府を密かに騙し、投獄された志士を次々と集めた。十津川郷士と連絡しながら、倒幕運動を起こそうとしていた。しかし、幕府にこのことが疑われ、身の危険が迫ったため、一度、備後国の藤江村に身を潜める。しかし、志士達や十津川郷士達は理由があり帰ることができなかった。藤江村に身を潜めること数年(万延元年)、姫路城に招かれるなど、しばらくして備中広島某などにも招かれた。その後は倉敷市で学校を創立。学問も創立した。このころには、門下生約270人に至っていた。また、このことから倉敷地方では尊皇運動の発祥の地にもなった。
晩年
[編集]1867年(慶応3年)には、幕府の捜索がますます高まってきたため、晩年には、山外節翁と称す、号は五域愚庵とした。また、弟子達を故郷へ帰らせるが、幕府の捜索が高まるばかりであった。そのため、善通寺に隠れた。その後、会食中に、毒を盛られた料理を口にし死亡。現在、森田節斎の記念碑が、節斎の故郷に祀られている。県の文化財でもある。死後の1908年(明治41年)贈従四位が贈られた。
関係者
[編集]教師
[編集]儒学者
[編集]志士
[編集]弟子
[編集]子
[編集]経歴
[編集]- 1811年(文化8年)大和国(奈良県)に森田家の三男として生まれる。しかし、長男が早く死去。四人兄弟として育てられる。父親の影響で、医術などを学んだ。
- 1822年(文政5年)医学者の父である森田文庵が死去。
- 1826年(文政9年)母親が学問に専念。母親の影響で学問に入る。
- 1826(文政9年) - 1829年(文政12年)兄と医学を学ぶために、京都に出て、猪飼敬所や頼山陽の塾で学ぶ。また、江戸に出て、昌平坂学問所などでも学ぶ。
- 1832年(天保3年)昌平坂学問所を去り、安井息軒、塩谷宕陰、野田笛浦と知り合う。
- 1838年(天保9年)母親が死去。その喪に服して、数年立ち止まった。
- 1844年(天保15年)江木鰐水の著した「山陽先生行状」を強く論難。
- 1845年(弘化2年)京都に出て、弟子を取り、学問を開いた。また、尊王攘夷論について、激しく論じた。
- 1848年(弘化5年)大和五条に滞在。
- 1852年(嘉永4年)綿町に寓居。
- 1854年(嘉永6年)森田無絃と結婚。
- 1854(嘉永6年) - 1856年(安政2年)倒幕運動を起こそうとしたが、幕府に疑われ、藤江村に身を潜める。また、藤江村に塾も開く。
- 1859年(安政5年)姫路城、姫路藩に招かれる。
- 1861年(万延元年)備中国で弟子を取り、教育。
- 1868年(慶応4年)毒を盛られた料理を口にし死亡。
人物
[編集]節斎は、父親譲りで、貧しい人々からは決して医療費をとらなかったと言われる。
妻の森田無絃は、貰い手が居ないほどの女性だったが、成績が優秀であったため、成績を優先している人物だと思われる。
倒幕運動では、近代化を目指した明治維新に少なからずの影響も与えた人物である。
発言
[編集]- 才能とは天が人間に貸しているものだ
- 人間は磨いてもって人の世のために使うべきだ
才能とは 天が人間に貸しているものだ
人間は磨いてもって人の世のために使うべきだ
墓所
[編集]節斎の父である森田文庵の墓には、吉田松陰の名が刻まれている。また、ゆかりの地でもある。
簡塾のあった倉敷市の教善寺には、娘である森田阿孟の墓があり、
節斎の死後に招魂碑が建てられている。