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植上健治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
植上 健治
基本情報
出身地 日本の旗 日本 徳島県 徳島市
生年月日 1955年5月20日
没年月日 (1995-02-16) 1995年2月16日(39歳没)
身長
体重
179 cm
78 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1973年 ドラフト2位
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

植上 健治(うえがみ けんじ、1955年5月20日 - 1995年2月16日[1])は徳島県徳島市出身のプロ野球選手、打撃投手、スコアラー。

来歴・人物

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香川県立高松商業高等学校では2年生の時、右翼手、四番打者として1972年夏の甲子園予選北四国大会決勝に進むが、高松一高に完封負け。翌1973年には春夏の甲子園にエース、四番打者として連続出場。春の選抜では向陽高との1回戦を完封で突破するも、2回戦で鳴門工に敗退[2]夏の甲子園では1回戦で取手一高に延長11回サヨナラ勝ち、2回戦も京都商に9回完封サヨナラ勝ち。3回戦に進出するが、銚子商土屋正勝投手と投げ合い、6回裏に3点を先制したものの、直後の7回に4点を返され、そのまま敗退[3]。木製バット最後の夏の大会であり、1-0という試合が11試合を数えたこの大会ではあまり見ない逆転劇を喫した。重い速球とシュートが武器だった。

1973年ドラフト2位で阪神タイガースから指名され入団。一年目の春季キャンプで肩と肘を故障し出遅れる。翌年はウエスタンリーグで2勝するが、その後も一軍では登板機会が無く、1977年オフに金銭トレードでクラウンライターライオンズに移籍。しかしここでも出番は無く、1979年限りで現役引退

引退後はライオンズの打撃投手に転向[1]1985年からライオンズのスコアラーに、1994年に再び打撃投手に就くが、1995年ハワイマウイ島での春季キャンプのミーティング中に心臓発作により急逝、享年39[1]

詳細情報

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年度別投手成績

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  • 一軍公式戦出場なし

背番号

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  • 36(1974年 - 1977年)
  • 55(1978年 - 1979年)
  • 60(1980年)
  • 87(1981年)
  • 96(1982年 - 1984年)
  • 01(1994年 - 1995年)

関連項目

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脚注

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  1. ^ a b c プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、75ページ
  2. ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
  3. ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年