楊安児
楊 安児(よう あんじ、生年不詳 - 1214年)は、金末に山東地方で蜂起した紅襖軍の首領の一人。益都府益都県の出身。
生涯
[編集]楊安児は泰和年間に一度叛乱を起こしたが失敗し、金朝に降って「必勝軍」と呼ばれる義勇軍の副官に任じられていた人物であった[1][2]。しかし、対モンゴル戦線に派遣された楊安児は野狐嶺の戦いでの大敗北を受けて山東地方に逃れ帰り、大安3年(1211年)に再び背いて山東一帯を劫掠した[2][3]。
しかし、貞祐2年(1214年)4月に金朝とモンゴル軍の間に一時的に和議が結ばれると、金朝は僕散安貞を益都府に派遣して本格的に紅襖軍討伐を開始した。僕散安貞はまず益都城の東で楊安児を破ったものの、楊安児は敗走した先で萊州の徐汝賢を降して再起した[4]。更に、登州刺史の耿格が自発的に降ったことで楊安児の勢力はますます拡大し、楊安児は遂に皇帝号を称して「天順」と改元するに至った[1]。勢いに乗じて楊安児は東では寧海州を陥落させ、西では濰州を攻め、その配下の「元帥」方郭三は密州を拠点に南方の沂州・海州を平定した[5]。
同年7月17日、僕散安貞率いる金軍主力と徐汝賢率いる「三州の衆十万」の叛乱軍は昌邑城の東で激突し、戦闘は昼に始まって暮れまで続き、両軍は30里余りを転戦したが、遂に叛乱軍の敗北に終わった[4]。更に同月、棘七率いる4万の軍は辛河で僕散安貞率いる金軍と激突し、ここでも金軍に大敗し、萊州に逃れた。寧海州刺史の史潑立は20万の兵で以て城壁の東で金軍を防ごうとしたが敗れ、籠城を始めた。萊州の守りが堅いと見た僕散安貞は曹全・張徳・田貴・宋福らを偽って徐汝賢に投降させ、7月24日(丁亥)夜に全軍で城を攻めると同時に曹全らが内応し、遂に萊州は陥落した。徐汝賢は乱戦の中で殺され、楊安児は単身逃れたものの、耿格・史潑立らも皆金軍に投降した[6]。
楊安児勢力の瓦解が決定的となったと見た金朝は同年11月に楊安児とその配下を除いて山東地方に恩赦を出したため、形成不利と見たに楊安児は船に乗って岠嵎山(現在の海陽市の東)で曲成らの襲撃を受け殺されるに至った[7]。このように、楊安児の勢力は結局萊州の敗戦が決定打となって多くの構成員が金朝に降り、楊安児自身も殺されるに至ったが、楊安児の妹の四娘子は残党を率いて磨旗山を拠点とし、後に李全の勢力を合流するに至る[4]。
脚注
[編集]- ^ a b 林1980,65頁
- ^ a b 池内1977,33頁
- ^ 『元史』巻102列伝40僕散安貞伝,「初、益都県人楊安国自少無頼、以鬻鞍材為業、市人呼為『楊鞍児』、遂自名楊安児。泰和伐宋、山東無頼往往相聚剽掠、詔州郡招捕之。安児降、隷諸軍、累官刺史・防禦使。大安三年、招鉄瓦敢戦軍、得千餘人、以唐括合打為都統、安児為副統、戍辺。至鶏鳴山不進。衛紹王駅召問状、安児乃曰『平章参政軍数十万在前、無可慮者。屯駐鶏鳴山、所以備間道透漏者耳』。朝廷信其言。安児乃亡帰山東、与張汝楫聚党攻劫州県、殺略官吏、山東大擾」
- ^ a b c 池内1977,36頁
- ^ 『元史』巻102列伝40僕散安貞伝,「安貞至益都、敗安児於城東。安児奔萊陽。萊州徐汝賢以城降安児、賊勢復振。登州刺史耿格開門納偽鄒都統、以州印付之、郊迎安児、発帑蔵以労賊。安児遂僭号、置官属、改元天順、凡符印詔表儀式皆格草定、遂陥寧海、攻濰州。偽元帥方郭三拠密州、略沂・海。李全略臨朐、扼穆陵関、欲取益都。安貞以沂州防禦使僕散留家為左翼、安化軍節度使完顔訛論為右翼」
- ^ 『元史』巻102列伝40僕散安貞伝,「七月庚辰、安貞軍昌邑東、徐汝賢等以三州之衆十万来拒戦。自午抵暮、転戦三十里、殺賊数万、獲器械不可勝計。壬午、賊棘七率衆四万陣于辛河。安貞令留家由上流膠西済、継以大兵、殺獲甚衆。甲申、安貞軍至萊州、偽寧海州刺史史潑立以二十万陣於城東。留家先以軽兵薄賊、諸将継之、賊大敗、殺獲且半、以重賞招之、不応。安貞遣萊州黥卒曹全・張徳・田貴・宋福詐降于徐汝賢以為内応。全与賊西南隅戍卒姚雲相結、約納官軍。丁亥夜、全縋城出、潜告留家。留家募勇敢士三十人従全入城、姚雲納之、大軍畢登、遂復萊州、斬徐汝賢及諸賊将以徇。安児脱身走、訛論以兵追之。耿格・史潑立皆降。留家略定膠西諸県、宣差伯徳玩襲殺方郭三、復密州。餘賊在諸州者皆潰去。安児嘗遣梁居実・黄県甘泉鎮監酒石抹充浮海赴遼東構留哥、已具舟、皆捕斬之」
- ^ 『元史』巻102列伝40僕散安貞伝,「十一月戊辰、曲赦山東、除楊安児・耿格及諸故官家作過駆奴不赦外、劉二祖・張汝楫・李思温及応脅誘従賊、並在本路自為寇盗、罪無軽重、並与赦免。獲楊安児者、官職倶授三品、賞銭十万貫。十二月辛亥、耿格伏誅、妻子皆遠徙。諸軍方攻大沫堌、赦至、宣撫副使・知東平府事烏林答与即引軍還。賊衆乗之、復出為患。詔以陝西統軍使完顔弼知東平府事、権宣撫副使。其後楊安児与汲政等乗舟入海、欲走岠嵎山。舟人曲成等撃之、墜水死」
参考文献
[編集]- 大島立子「金末紅襖軍について」『明代史研究』創刊号、1974年
- 池内功「李全論:南宋・金・モンゴル交戦期における一民衆叛乱指導者の軌跡」『社会文化史学』14号、1977年
- 林章「金末の山東の民乱について」『史学論叢』11、1980年