楠木正元
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時代 | 南北朝時代 - 室町時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 元中9年/明徳3年(1392年) |
改名 | 二郎(幼名)[1][2]→正元 |
官位 | 河内介[2]、贈従四位[3] |
主君 | 楠木正儀→楠木正勝(後亀山天皇) |
氏族 | 楠木氏 |
父母 | 父:楠木正儀 |
兄弟 | 正勝、正元、正秀 |
楠木 正元(くすのき まさもと)は室町時代の武将。贈従四位。楠木正成の孫で楠木正儀の子。将軍足利義満を暗殺しようとして露見、処刑されたという説がある。
生涯
[編集]楠木正成の三男楠木正儀の子として出生、幼名・通称は二郎(『全休庵楠系図』[2]、『群書類従』所収『橘氏系図』[1])。南朝に仕える。官職は河内介(『全休庵楠系図』[2])。
元中9年/明徳3年(1392年)春、畠山基国が率いる室町幕府軍によって本拠千早城が落とされる。
同年、残党と共に斬首される(『全休庵楠系図』[2])。
『桜雲記』下巻によれば、千早城陥落から南北朝合一(明徳の和約)の間までの話として、正元は密計して京に入り、将軍足利義満を暗殺しようとしたが、実行の前に事が露見して処刑された[4]。時の人々は、正成・正行の忠志に違わない人だと正元を称賛したという[4]。
大正4年(1915年)11月大嘗会において、従四位を追贈された[3][5]。
『松染情史秋七草』
[編集]『桜雲記』下巻では暗殺実行前に処刑されているが、曲亭馬琴による江戸時代後期の文学作品『松染情史秋七草』はこの逸話を踏まえ、将軍足利義満の暗殺を実行に移すも、失敗して翌日に処刑されたとして描いている[6]。また、同作品は正元の遺児である操丸(久松)を主人公として描いている[6]。