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楠木正元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
楠木正元
時代 南北朝時代 - 室町時代
生誕 不明
死没 元中9年/明徳3年(1392年
改名 二郎(幼名)[1][2]→正元
官位 河内介[2]従四位[3]
主君 楠木正儀楠木正勝後亀山天皇
氏族 楠木氏
父母 父:楠木正儀
兄弟 正勝、正元、正秀
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楠木 正元(くすのき まさもと)は室町時代の武将。従四位楠木正成の孫で楠木正儀の子。将軍足利義満を暗殺しようとして露見、処刑されたという説がある。

生涯

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楠木正成の三男楠木正儀の子として出生、幼名・通称は二郎(『全休庵楠系図』[2]、『群書類従』所収『橘氏系図』[1])。南朝に仕える。官職は河内介(『全休庵楠系図』[2])。

元中9年/明徳3年(1392年)春、畠山基国が率いる室町幕府軍によって本拠千早城が落とされる。

同年、残党と共に斬首される(『全休庵楠系図』[2])。

桜雲記』下巻によれば、千早城陥落から南北朝合一(明徳の和約)の間までの話として、正元は密計して京に入り、将軍足利義満を暗殺しようとしたが、実行の前に事が露見して処刑された[4]。時の人々は、正成・正行の忠志に違わない人だと正元を称賛したという[4]

大正4年(1915年)11月大嘗会において、従四位を追贈された[3][5]

『松染情史秋七草』

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『桜雲記』下巻では暗殺実行前に処刑されているが、曲亭馬琴による江戸時代後期の文学作品『松染情史秋七草』はこの逸話を踏まえ、将軍足利義満の暗殺を実行に移すも、失敗して翌日に処刑されたとして描いている[6]。また、同作品は正元の遺児である操丸(久松)を主人公として描いている[6]

脚注

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  1. ^ a b 橘氏系図 1893.
  2. ^ a b c d e 藤田 1938, p. 32.
  3. ^ a b 贈位功臣言行録 1916, pp. 133–136.
  4. ^ a b 桜雲記 1906, p. 54.
  5. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.34
  6. ^ a b 中尾 2008.

参考文献

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