楳本法神
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楳本 法神(うめもと ほうしん、享保12年(1727年)[要出典] - 文政13年(1830年)8月14日)は、日本の剣法家。氏は富樫、名は正武、通称白生、号を楳仙。のちに姓を楳本に改めた[1][2]。妻子はなく、居所を定めず、自身の出自も語ることはなかったという[1][2]。
経歴
[編集]富樫政親の子孫、加賀藩士富樫家の生まれとされ、15歳で家を出て諸国を放浪したという[1][2]。長崎で医学を学び、柔術剣術を修め、1日に数十里を走るなど、文武とも卓越していたとされる[1]。
上野国の金山宮(群馬県渋川市赤城町深山)に籠って剣術を会得[3]。利根郡大楊村(現・沼田市利根町大楊)や勢多郡深山村(現・渋川市赤城町深山)に住み、利根郡や勢多郡に多数の弟子を持ったという[1][2]。
文政13年(1830年)8月14日、上野国勢多郡下田沢村(現・桐生市黒保根町下田沢)の弟子、青山歌吉(雅楽之助)の家で死没[2]。
その剣法は法神亡きあと、法神流として伝えられた。高弟に深山村(現・渋川市赤城町深山)の須田(星野)房吉、上箱田村(現・渋川市北橘町上箱田)の森田与吉郎、上南室村(現・渋川市北橘町上南室)の町田寿吉郎がおり、「三田の三吉」と言われ、さらに下田沢村(現・桐生市黒保根町下田沢)の青山歌吉(雅楽之助)とあわせて「法神門下の四天王」と呼ばれた[1][2]。
渋川市北橘町下箱田の木曽三社神社の「法神流剣法伝統碑」には明和事件で処刑された藤井右門と同一人物で、168歳まで生きたと記録されているが、もとより史実ではない[1][2]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g 勢多郡誌編纂委員会 1958, pp. 940–942.
- ^ a b c d e f g 群馬県勢多郡敷島村誌編纂委員会 1959, pp. 488–495.
- ^ 第4代継承者の木刀発見 法神流剣術 渋川の金山宮、幕末期か 須田平八が奉納 天然痘終息祈願 - 上毛新聞 2022年1月3日
出典
[編集]- 『剣の達人111人データファイル』(新人物往来社)
- 群馬県勢多郡敷島村誌編纂委員会『群馬県勢多郡敷島村誌』群馬県勢多郡赤城村役場内群馬県勢多郡敷島村誌編纂委員会、1959年12月15日。
- 勢多郡誌編纂委員会『勢多郡誌』勢多郡誌編纂委員会、1958年3月30日。