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榊原弥生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
さかきばら やよい

榊原 弥生
生誕 (1886-04-07) 1886年4月7日
山形県鶴岡
死没 (1935-04-19) 1935年4月19日(49歳没)
京都府
死因 脳脊髄膜炎
国籍 日本の旗 日本
出身校 明治女学校
時代 大正
団体 新婦人協会
京都婦人連合会
婦人選挙権獲得同盟京都支部
影響を受けたもの 厨川白村
活動拠点 京都府
宗教 キリスト教
配偶者 無し
親戚 黒崎幸吉(従兄弟)
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榊原 弥生(さかきばら やよい、1886年明治19年〉4月7日 - 1935年昭和10年〉4月19日[1])は、日本の婦人運動家。大正デモクラシーの時期の京都で、市民的な女性運動が盛んになった際に、その中心となって諸運動の連携に尽力した人物である[2]山形県鶴岡出身[3]明治女学校専攻科卒業[2]。従兄弟に聖書学者の黒崎幸吉がいる[4]

経歴

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1886年明治19年)に誕生した[1]。東京の明治女学校卒業を経て、熊本女学校や東京女子商業学校など、日本各地の女学校に教員として勤めた[2]。兄の仕事の関係で、満州でも教鞭をとった[1]

1919年大正8年)7月、当時の京都大学教授の厨川白村の勧めで、厨川の妻や中外日報記者ら女性たちと共に、知的階級女性による文化団体「京都PL会」を結成した[1][5]。一時は会員数が200人に昇り、時事問題などを活発に勉強し合った[1]。同1919年11月24日には大阪婦人十日会と共に、第1回婦人会関西連合会で中心となって尽力した[1]

1920年大正9年)に、平塚らいてうらの設立した「新婦人協会」に参加した[2][6]。同1920年に京都の成安裁縫学校(後の成安造形大学)に講師として勤め、京都を住居とした[1]

また同1920年12月には、都の28の婦人会を束ねて、京都婦人連合会を結成した[1][6]。翌1921年(大正10年)に開催された同連合会の大会では、開会の辞において、「今後は京都婦人連合会の活動を主軸とし、現実の生活に根差した女性の地位向上を目指す」とを述べた[1]1930年(昭和5年)、京都の婦人運動家たちと共に「婦人選挙権獲得同盟京都支部」を設立して[6]、幹事を務めた[2]

全関西婦人連合会の理事としても活躍した[2]。婦人連合会の活動拠点としての会館建設を計画して寄付を募り、1931年(昭和6年)には京都市連合婦人会館の落成に至った[1]

1934年(昭和9年)10月に、京都連合婦人会を辞任した[1]。翌1935年(昭和10年)4月17日、脳脊髄膜炎により京都大学病院に入院した[4]。医師である実弟の手厚い看護を受けたものの[1]、同1935年4月19日に同病院にて、兄弟や同志たちに看取られつつ、満49歳で死去した[4]。生涯独身であったが、早世した姉の遺した子供2人を育てており[1]、この2人の子も弥生の最期を看取った[4]

京都連合婦人会では、弥生の長年にわたる功労への報いとして、初の婦人会葬を営むことが満場一致で決定した。同1935年4月23日、弥生の活動拠点であった京都市連合婦人会館で、キリスト教式の告別式が行われ、会葬者の数は千人以上に昇った[4]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 折井他 2009, pp. 89–90
  2. ^ a b c d e f 光田 1995, pp. 63–64
  3. ^ 光田 2002, pp. 185–186
  4. ^ a b c d e 光田 2002, pp. 225–228
  5. ^ 光田 2002, pp. 191–193
  6. ^ a b c 吉岡清「まち ひと 100年の肖像 第9部 願いひとつ手をたずさえて 1948年(昭和23年)「女性に権利を」意気高く」『京都新聞』京都新聞社、1999年7月24日、朝刊、4面。

参考文献

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  • 折井美耶子・女性の歴史研究会編著『新婦人協会の人びと』ドメス出版、2009年11月24日。ISBN 978-4-8107-0732-8 
  • 光田京子他『京の女性史』京都府、1995年3月。 NCID BN13416277 
  • 光田京子他 著、京都橘女子大学女性歴史文化研究所編 編『京都の女性史』思文閣出版、2002年10月12日。ISBN 978-4-7842-1123-4