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槇智雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
槇武から転送)
槇 智雄
まき ともお
生誕 (1891-12-12) 1891年12月12日
日本の旗 日本宮城県仙台市
死没 (1968-10-03) 1968年10月3日(76歳没)
日本の旗 日本東京都
研究分野 歴史学
研究機関 白梅学園短期大学
出身校 慶應義塾大学学士
オックスフォード大学学士
主な受賞歴 勲二等瑞宝章1965年
銀盃一個従三位1968年
プロジェクト:人物伝
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槇 智雄(まき ともお、1891年明治24年)12月12日 - 1968年昭和43年)10月3日)は、日本政治学者。専門は、イギリス憲法史・政治制度史。防衛大学校名誉教授。保安大学校長・初代防衛大学校長、白梅学園短期大学学長を歴任。登山家槇有恒は実弟。

経歴

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宮城県仙台市出身。父は新潟県士族・槇武。父の仙台赴任中に生まれた。

1965年叙勲二等瑞宝章。1968年賜銀盃一個、叙従三位

家族

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  • 父・槇武(1861年生) - 長岡藩士・槇小太郞の長男。慶應義塾を卒業後、奧羽日日新聞に入社、のちに主筆となる[2]。米穀取引所理事、三井銀行を経て、1907年に新竹製脳会社を興して取締役に就任、その後、岩城炭鉱、新竹拓殖軌道の社長のほか、有阪製袋、新竹電燈、台湾製脳、台湾製塩、花蓮港木材などの重役を務めた[2]
  • 父方叔父・槇哲 (1866-1939) - 槇小太郞の次男。慶應義塾理財科卒業後、慶応義塾監督、舎監を経て、1896年北越鉄道入社、王子製紙を経て、1906年日本統治下の台湾塩水港製糖支配人となり、のち社長に就任[3][4]。台湾花蓮港木材、新日本砂糖工業、東北砂鉄でも社長を務めたほか、台湾倉庫、南昌洋行、台湾製脳、台湾電気興業、台湾生薬、南満州製糖の重役など、植民地経営に尽力した[3]
  • 岳父・小田切万寿之助[2]
  • 弟・槇有恒 - 登山家
  • 甥・槇文彦 - 建築家

著書

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  • 『防衛の務め - 防衛大学校における校長講話』甲陽書房、1965年、増補版1968年
  • 『米・英・仏士官学校歴訪の旅 - 自由民主国家の士官養成』甲陽書房、1969年
  • 『防衛の務め 自衛隊の精神的拠点』中央公論新社、2009年、新版2020年 

共著

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  • 『渡欧だより 其2 渡欧だより(槙智雄) 渡米だより(槙哲)』岸田書店、1917年、槙英子
  • 『西洋史講座12 西洋政治制度史』ほか 雄山閣、1932年

参考文献

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  • 慶應義塾 『慶應義塾百年史』 別巻(大学編)、1962年。
  • 池井優 『慶應義塾大学法学部政治学科百年小史 - 師友人物記』 慶應義塾大学出版会、1998年。
  • 槇智雄先生追想集刊行委員会編 『槇乃実 - 槇智雄先生追想集』 防衛大学校同窓会槇記念出版委員会、1972年。

関連項目

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i 慶應義塾 『慶應義塾百年史』 別巻 大学編、530-531頁
  2. ^ a b c 槇武『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
  3. ^ a b 槇 哲(読み)マキ アキラコトバンク
  4. ^ 塩水港製糖の失敗と再生─大日本製糖の事例を念頭に久保文克、第47回経営史学会全国大会自由論題報告、2011年10月15日