小田切万寿之助
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小田切 萬壽之助(おだぎり ますのすけ、1868年2月18日〈明治元年1月25日〉 [1] – 1934年〈昭和9年〉9月12日[2])は、日本の外務省官僚、銀行家。総領事。横浜正金銀行取締役[2]。出羽国米沢(後の米沢市)出身[1]。
人物
[編集]万寿之助は1868年(明治元年)1月25日、出羽国米沢に小田切盛徳の長男として生まれる。少年時代は地元で学び、後に上京して1886年(明治19年) に、外務省に入省。間もなくして天津に留学する。その後、領事館書記生となり公使館書記生を経て[1]、1896年(明治29年)に、二等領事となって以来、郵便電信書記、二等郵便局長、杭州郵便局長、上海総領事代理、等の官職を歴任し、1902年(明治35年)には総領事となり、日清通商航海条約改訂委員及び清国関税率換算委員なども務めた。そして1905年(明治38年)に総領事を依願退職すると、横浜正金銀行の顧問に就任し、その翌年の役員選挙では取締役に当選した。その後は同取締役を長らく務め、満州総括店監理、清国支店出張所監理、対丈特殊事務取扱、頭取席事務取扱などの担当を歴任した[2]。墓所は多磨霊園。
経歴
[編集]- 明治元年1月25日 - 小田切盛徳の長男として誕生[1]。
- 幼少時代は郷学で学び、後に上京する[1]。
- 1886年(明治19年) - 外務省入省、天津に留学[1]。
- 1887年(明治20年)12月19日 - 任 領事館書記生、叙 判任官五等[3]、後に公使館書記生となる[1]。
- 1896年(明治29年)
- 1897年(明治30年)
- 1898年(明治31年)
- 1899年(明治32年)
- 1900年(明治33年)
- 1901年(明治34年)3月31日 - 昇叙 高等官四等[12]、賜 三級俸[13]。
- 1902年(明治35年)
- 1903年(明治36年)12月8日 - 賜 一級俸[16]。
- 1904年(明治37年)1月16日 - 日清通商航海条約改訂委員 被免、清国関税率換算委員 被免[17]。
- 1905年(明治38年)
- 1906年(明治39年)
- 1911年(明治44年)3月16日 - 清国支店出張所監理[2]。
- 1919年(大正8年)5月15日 - 各支店出張所監理 解任、対支特殊事務取扱[2]。
- 1920年(大正9年)9月7日 - 平和条約等締結の功にて勲章を授け賜る[2]。
- 1921年(大正10年)
- 1923年(大正12年)12月28日 - 対支文化事業調査会委員[22]。
- 1924年(大正13年)2月11日 - ワシントン会議参列随員の功にて賞杯を賜る[23]。
- 1934年(昭和9年)9月12日 - 死去。特旨を以て位一級追昇される[24]。
栄典・授章・受賞
[編集]- 位階
- 1896年(明治29年)7月30日 - 正七位[25]
- 1898年(明治31年)9月10日 - 従六位[26]
- 1901年(明治34年)7月10日 - 正六位[27]
- 1905年(明治38年)6月30日 - 従五位[28]
- 1934年(昭和9年)9月12日 - 正五位[24]
- 勲章等
- 1899年(明治32年)5月13日 - 勲六等単光旭日章[29]
- 1902年(明治35年)12月28日 - 勲五等双光旭日章・金千三百円[30]
- 1904年(明治37年)5月20日 - 勲四等旭日小綬章[31]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲三等旭日中綬章・金二千円[2]。
- 1916年(大正5年)10月14日 - 勲二等瑞宝章[32]
- 1920年(大正9年)9月7日 - 旭日重光章[33]
- 1924年(大正13年)2月11日 - 金杯一組[23]
- 外国勲章等佩用允許
- 1899年(明治32年)7月31日 - 大清帝国:二等第二双竜宝星[34]
- 1905年(明治38年)7月22日 - 大清帝国:二等第一双竜宝星[35]
- 1916年(大正5年)
- 1917年(大正6年)3月19日 - ロシア帝国:神聖スタニスラス星章付第二等勲章[38]
- 1918年(大正7年)5月7日 - 支那共和国:二等嘉禾章[39]
- 1924年(大正13年)10月28日 - フランス共和国:レジオンドヌール勲章オフィシエ[40]
著作物
[編集]- 著書
- 『銀台遺稿』 1935年 小田切万寿之助(著) 小田切武林(出版)[41]
- 『合衆国西北部ニ於テ帝国領事館新設地撰択ニ関スル報告』 1894年 小田切萬壽之助(著) 外務省通商局第二課(出版)[41]
- 纂著
- 『朝鮮』 1890年 小田切万寿之助(纂著)[41]
- 編纂
- 『譯補支那交通紀實』 1917年 小田切万寿之助(編纂)[41]
関連論文
[編集]- 『小田切万寿之助研究 -明治大正期中日関係史の一側面』「小田切万寿之助明治大正期中日関係史」 于乃明(著)〈博士論文〉 筑波大学[41]
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g 『両羽之現代人』 「横浜正金銀行取締役 小田切万寿之助」
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 「故小田切万寿之助位階追陞ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A11114257800
- ^ 「小田切万寿之助外一名叙勲」 アジア歴史資料センター Ref.A10112811700
- ^ 『官報』第3882号「叙任及辞令」1896年6月9日。
- ^ 『官報』第3883号「叙任及辞令」1896年6月10日。
- ^ 『官報』第4010号「叙任及辞令」1896年11月9日。
- ^ 『官報』第4161号「叙任及辞令」1897年5月19日。
- ^ 『官報』第4346号「叙任及辞令」1897年12月24日。
- ^ 『官報』第4485号「叙任及辞令」1898年6月14日。
- ^ 『官報』第4722号「叙任及辞令」1899年4月1日。
- ^ 『官報』第5178号「叙任及辞令」1900年10月3日。
- ^ 『官報』第5320号「叙任及辞令」1901年4月1日。
- ^ 『官報』第5321号「叙任及辞令」1901年4月2日。
- ^ 『官報』第5554号「叙任及辞令」1902年1月11日。
- ^ 『官報』第5556号「叙任及辞令」1902年1月14日。
- ^ 『官報』第6133号「叙任及辞令」1903年12月10日。
- ^ 『官報』第6161号「叙任及辞令」1904年1月18日。
- ^ 『官報』第6539号「叙任及辞令」1905年4月21日。
- ^ 『官報』第6540号「叙任及辞令」1905年4月22日。
- ^ 『官報』第6616号「叙任及辞令」1905年7月20日。
- ^ 『官報』第2758号「叙任及辞令」1921年10月10日。
- ^ 『官報』第3408号「叙任及辞令」1924年1月4日。
- ^ a b 『官報』第3533号「叙任及辞令」1924年6月4日。
- ^ a b 『官報』第2317号「叙任及辞令」1934年9月19日。
- ^ 『官報』第3927号「叙任及辞令」1896年7月31日。
- ^ 『官報』第4562号「叙任及辞令」1898年9月12日。
- ^ 『官報』第5406号「叙任及辞令」1901年7月11日。
- ^ 『官報』第6600号「叙任及辞令」1905年7月1日。
- ^ 『官報』第4758号「叙任及辞令」1899年5月15日。
- ^ 『官報』第5848号「叙任及辞令」1902年12月29日。
- ^ 『官報』第6265号「叙任及辞令」1904年5月21日。
- ^ 『官報』第1264号「叙任及辞令」1916年10月16日。
- ^ 『官報』第2431号「叙任及辞令」1920年9月8日。
- ^ 『官報』第4828号「叙任及辞令」1899年8月4日。
- ^ 『官報』第6626号「叙任及辞令」1905年8月1日。
- ^ 『官報』第1035号「叙任及辞令」1916年1月17日。
- ^ 『官報』第1072号「叙任及辞令」1916年3月1日。
- ^ 『官報』第1389号「叙任及辞令」1917年3月22日。
- ^ 『官報』第1727号「叙任及辞令」1918年5月8日。
- ^ 『官報』第3657号「叙任及辞令」1924年10月30日。
- ^ a b c d e 『国立国会図書館サーチ』キーワード「小田切万寿之助」
- ^ 富永敏麿『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
参考資料
[編集]- 『両羽之現代人』 1919年 古山省吾 編
- 『アジア歴史資料センター』
- 『国立国会図書館』