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樋野含斎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

樋野 含斎日野 含斎[1]、ひの がんさい[2][3]生年不明 - 1865年9月27日慶応元年8月8日[2])は、江戸時代後期の出雲広瀬藩儒者。名は弘[3]、仲毅[2]。字は子毅[2][3]。俗名は多門[1]は林泉山人[1]

経歴

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家は代々広瀬藩士[3]。儒者・海野紫瀾、篠崎小竹に学ぶ[2]安政3年、伯耆国(現・鳥取県)の淀江に来る[1]。後に米子の寺院に寓し多数の門下生を薫陶する[1]郷校をひらく[2]

人物

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漢学に造詣が深く、能書の誉がある[1]。米子の実業家初代坂口平兵衛は樋野の門に入り、漢学を修めている[4]

脚注

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  1. ^ a b c d e f 『米子自治史』1016頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年8月21日閲覧。
  2. ^ a b c d e f 樋野 含斎とはコトバンク。2022年8月21日閲覧。
  3. ^ a b c d 『大日本人名辞書 下巻 新版』2182頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年10月20日閲覧。
  4. ^ 『鳥取県百傑伝 近代百年』231頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年10月17日閲覧。

参考文献

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  • 大日本人名辞書刊行会編『大日本人名辞書 下巻 新版』大日本人名辞書刊行会、1926年。
  • 米子市編『米子自治史』米子市、1939年。
  • 『鳥取県百傑伝 近代百年』山陰評論社、1970年。