コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

横浜オリンピック構想

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
横浜オリンピックから転送)
メインスタジアムとなる予定であった横浜国際総合競技場

横浜オリンピック構想(よこはまオリンピックこうそう)は、2008年夏季オリンピックの開催を神奈川県横浜市で目指していた構想。1997年日本オリンピック委員会(JOC)総会での決選投票により、日本からの立候補都市は大阪市大阪オリンピック構想)に決定し、開催は実現しなかった[1]

立候補の経緯

[編集]

時の横浜市長高秀秀信が1996年春に市の幹部会議で発案したのが発端である[2]1992年バルセロナオリンピックの開催効果で、スペインバルセロナが国際会議開催件数を前年より30件以上増やしたことを模範として、オリンピック開催によって横浜の名前を世界に発信し、国際会議やイベントをパシフィコ横浜などに誘致し、支店経済都市からの脱却や日本国外からの企業誘致の契機とすることを目論んでいた[1]

2008年にオリンピックを誘致することで、翌2009年の横浜開港150周年の記念事業の一環とすることも考えられていた[3]

大会の概要

[編集]

関連年表

[編集]

招致失敗の原因

[編集]
  • 北関東まで会場が分散する超広域開催(最遠は選手村から142 km離れた今市市丸山公園〔栃木県今市市、現・日光市[5])に対しての不安が払拭できなかった[2]。JOC立候補資料検討委員会による1997年6月の現地調査の時点で「広域開催なんてだれも支持しない。最初から勝負はついている。」と語る委員がおり、委員長の八木祐四郎も「難しい提案」とコメントしていた[2]。会場として浮上した市町村の多くが、本気で招致活動に取り組まなかったこともマイナスに働いた[6]
  • 「金を使わないオリンピック」を招致段階でも徹底した結果、招致費用で大阪市に大差を付けられた(横浜市は1.6億円、大阪市は18億円)[2]
  • 2002 FIFAワールドカップ開催が決定した直後の横浜市では、市役所の招致活動主導権が強すぎたことも重なり、市民の関心を引きつけきれず、財界などの民間団体まで広く組織化した大阪とは好対照となった[7]。招致を目指す市民組織も役所主導で結成されたが、一般市民の認知度は低く、既存の市民組織との連携も取れていなかった[7]。高秀市長は、招致をめぐる横浜市民と大阪市民の盛り上がりを「ベイスターズタイガースのファンの差のようなもの」と語った[7]

その後

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ a b 「検証・五輪招致 2 国際都市 知名度アップ夢破れ」朝日新聞1997年8月16日付朝刊、神奈川版
  2. ^ a b c d e "検証・五輪招致 1 「高秀流」 市長の「一人勝ち」"朝日新聞1997年8月14日付朝刊、神奈川版
  3. ^ 石川祐司「2008年五輪誘致 大阪市に次ぎ横浜市が表明 焦点は財政負担」読売新聞1996年11月5日付朝刊、東京版11ページ
  4. ^ a b 上村邦之「横浜VS大阪 2008年五輪国内招致合戦 時期、会場際立つ相違」読売新聞1997年4月15日付朝刊、東京版3ページ
  5. ^ 横浜市競技会場計画”. 日本オリンピック委員会. 2021年11月21日閲覧。
  6. ^ "「検証・五輪招致 4 広域開催 かけ声先行の新理念」"朝日新聞1997年8月18日付朝刊、神奈川版
  7. ^ a b c 「検証・五輪招致 3 応援団 役所主導で区民の会」朝日新聞1997年8月17日付朝刊、神奈川版
  8. ^ 「スポーツ・ファイル97 2008年五輪国内候補“招致合戦”」読売新聞1997年12月28日付朝刊、東京版、スポーツ面C、16ページ

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]