横浜丸 (2代)
横浜丸 | |
---|---|
基本情報 | |
船種 | 貨客船 |
クラス | 横浜丸級貨客船 |
船籍 | 大日本帝国 |
所有者 | 日本郵船 |
運用者 |
日本郵船 大日本帝国陸軍 |
建造所 | 三菱造船所 |
母港 | 東京港/東京都 |
姉妹船 | 静岡丸[1] |
信号符字 | LVFW→JYHD[2] |
IMO番号 | 14812(※船舶番号)[2] |
建造期間 | 568日 |
就航期間 | 10,893日 |
経歴 | |
起工 | 1910年10月25日[3]。 |
進水 | 1912年1月30日[3] |
竣工 | 1912年5月14日[3] |
就航 | 1912年5月[2] |
最後 | 1942年3月10日 被弾沈没(ラエ・サラモアへの空襲) |
要目 | |
総トン数 |
6,469トン[4] 6,143トン[5] |
純トン数 | 3,789.85トン[4] |
載貨重量 | 7,850トン[4] |
排水量 | 12,524トン(満載)[4] |
垂線間長 | 121.92m[4] |
型幅 | 15.24m[4] |
型深さ | 11.5m[4] |
高さ |
31.69m(水面からマスト最上端まで) 9.44m(水面から船橋最上端まで) 19.81m(水面から煙突最上端まで) |
満載喫水 | 8.38m[4] |
ボイラー | 石炭専燃缶 |
主機関 | 三連成レシプロ機関 1基[4] |
推進器 | 1軸 |
最大出力 | 5,510IHP(連続)[4] |
最大速力 | 15.167ノット[2] |
航海速力 |
12ノット[2] 10.0ノット(満載)[4] |
航続距離 | 11ノットで16,000海里 |
旅客定員 |
一等:28名 三等:258名[6] |
1941年10月10日徴用。 高さは米海軍識別表[7] より(フィート表記)。 |
日本郵船の欧州航路の香取丸型、諏訪丸型の整備と同時期に北米航路の船質改善のため、1910年(明治43年)7月に6,300トン級の貨物船として2隻計画されたうちの1隻だが、1911年(明治44年)11月に貨客船に設計変更された[9]。船型は「賀茂丸」をはじめとした欧州航路の貨客船が三島型であるのに対して、横濱丸は遮浪甲板を有する平甲板型を採用した[10]。また、3番船口用の荷役装置として汽動クレーンを装備した[9]。川崎造船所建造の「静岡丸」は姉妹船[1]。
船歴
[編集]三菱造船所で建造され、1910年(明治43年)10月25日起工、1912年(明治45年)1月30日に進水し、同年5月14日に竣工した[3]。
竣工した「横浜丸」はシアトル航路に就航し、リバプール・ロンドン線で運行されていた時期を挟んで1932年(昭和7年)までシアトル航路で運航され、それから南洋航路東廻線に移った[4]。1937年(昭和12年)6月当時の東廻線は神戸・ヤルート間で運行され、寄港地は大阪(復航のみ)、門司(往航のみ)、横浜、サイパン、トラック、ポナペ、クサイであった[11]。
1921年(大正10年)6月8日、コロンボからシンガポールへ向け航行中にマラッカ海峡で「印度丸」(大阪商船、7,780トン)と衝突した[12]。
1941年(昭和16年)10月10日、陸軍に徴傭される[13]。
12月10日、グアム島上陸作戦に参加した[14]。「横浜丸」など9隻の輸送船は坂出港で南海支隊を乗せ、11月26日から29日にかけて母島へ進出[15]。12月4日に船団は海軍部隊に護衛されて母島を出撃した[16]。「横浜丸」は「チェリボン丸」(南洋海運、4,031トン)、「ちゃいな丸」(川崎汽船、5,870トン)とともに第二分隊で、その上陸地点は東海岸の太郎(タロホホ)湾、入屋(イリグ)湾であった[17]。第二分隊は10日0時に泊地に進入し、続いて上陸が行われた[18]。
1942年(昭和17年)1月14日、「横浜丸」などからなる9隻の船団は南海支隊を乗せてグアム島を出撃し、ラバウル攻略に向かった[19]。上陸は22日夜から翌日未明にかけて行われた[20]。
続いてラエ・サラモア攻略作戦に参加した。ラエは海軍、サラモアは陸軍担当であった[21]。「横浜丸」と「ちゃいな丸」はサラモア攻略にあたる堀江部隊を乗せ、陸海軍の攻略部隊は3月5日にラバウルを出撃した[22]。7日午後10時30分、陸軍船団はサラモア東方泊地に進入[23]。その後上陸が行われ、8日中に飛行場、サラモア市街やケラを占領した[23]。8日の夜明け後、1機の敵機が何度か来襲して爆撃を行い、「横浜丸」は3度爆撃を受けて戦死者7名負傷者8名を出した[24]。「横浜丸」は巡洋艦「夕張」工作隊による応急修理を受けた[25]。
3月10日、ラエ、サラモアは空襲を受けた[26]。この空襲で「横浜丸」は爆弾4発を受け、沈没した[27]。戦死者1名[28]。
脚注
[編集]- ^ a b 山田廸生「名船発掘 横濱丸 野口英世博士が15年ぶりの帰国時に乗船」
- ^ a b c d e “なつかしい日本の汽船 横浜丸”. 長澤文雄. 2023年10月10日閲覧。
- ^ a b c d 『創業百年の長崎造船所』531ページ
- ^ a b c d e f g h i j k l 山田早苗「日本商船隊の懐古No.229」12ページ
- ^ 『日本郵船戦時船史 上』49ページ
- ^ 『七十年史』110ページ
- ^ Yokohama_Maru
- ^ 山田早苗「日本商船隊の懐古No.229」12ページ。『日本郵船戦時船史 上』49ページ
- ^ a b “なつかしい日本の汽船 横浜丸型”. 長澤文雄. 2023年10月10日閲覧。
- ^ 『商船建造の歩み』45ページ
- ^ 『七十年史』226ページ
- ^ 『海員審判所裁決錄 大正十一年版』86-86ページ
- ^ 『日本郵船戦時船史 上』52ページ
- ^ 『日本郵船戦時船史 上』50ページ
- ^ 『中部太平洋方面海軍作戦<1>』241ページ
- ^ 『中部太平洋方面海軍作戦<1>』255ページ
- ^ 『中部太平洋方面海軍作戦<1>』258-259ページ
- ^ 『中部太平洋方面海軍作戦<1>』262ページ
- ^ 『南東方面海軍作戦<1>』58、66ページ。山田早苗「日本商船隊の懐古No.229」12ページ
- ^ 『南東方面海軍作戦<1>』66ページ
- ^ 『南東方面海軍作戦<1>』107ページ
- ^ 『南太平洋陸軍作戦<1>』71ページ。『南東方面海軍作戦<1>』116-117ページ
- ^ a b 『南太平洋陸軍作戦<1>』72ページ
- ^ 『南太平洋陸軍作戦<1>』72ページ。『南東方面海軍作戦<1>』120ページ。『南太平洋陸軍作戦<1>』および『南東方面海軍作戦<1>』では敵機はロッキードとある。『日本郵船戦時船史 上』51ページにはB24爆撃機1機が「横浜丸」を攻撃し、至近弾1発を受けた、とある。
- ^ 『南東方面海軍作戦<1>』120ページ
- ^ 『南太平洋陸軍作戦<1>』73ページ
- ^ 『日本郵船戦時船史 上』51ページ。「昭和17年3月1日~昭和17年3月17日 第6水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08030123100、昭和17年3月1日~昭和17年3月17日 第6水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(防衛省防衛研究所)、22-23画像
- ^ 『南東方面海軍作戦<1>』124ページ
参考文献
[編集]- 日本郵船株式会社(編)『七十年史』日本郵船、1956年
- 防衛庁防衛研修所戦史室『南太平洋陸軍作戦<1>ポートモレスビー・ガ島初期作戦』戦史叢書14、朝雲新聞社、1967年
- 防衛庁防衛研修所戦史室『中部太平洋方面海軍作戦<1>昭和十七年五月まで』戦史叢書38、朝雲新聞社、1970年
- 防衛庁防衛研修所戦史室『南東方面海軍作戦<1>ガ島奪還作戦開始まで』戦史叢書49、朝雲新聞社、1971年
- 三菱造船株式会社(編)『商船建造の歩み 1887~1958』三菱造船、1959年
- 山田早苗「日本商船隊の懐古No.229」船の科学 第51巻第8号(No.598)、船舶技術協会、1998年、12-13ページ
- 『日本郵船戦時船史 太平洋戦争下の社船挽歌 上』日本郵船、1971年
- 『創業百年の長崎造船所』三菱造船、1957年
- 『海員審判所裁決錄 大正十一年版』三秀舎、1935年