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橘永継

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
橘永継
時代 平安時代初期
生誕 神護景雲3年(769年
死没 弘仁12年3月14日821年4月19日
別名 永嗣
官位 従四位下修理大夫
主君 嵯峨天皇
氏族 橘氏
父母 父:橘入居
兄弟 永継永名逸勢御井子、田村子
時枝、数子、藤原仲統
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橘 永継(たちばな の ながつぐ)は、平安時代初期の貴族。名は永嗣とも記される。右中弁橘入居の長男。官位従四位下修理大夫

経歴

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左大臣橘諸兄の子孫(曾孫)として官に就き、初め内舎人に任ぜられる。大同2年(807年)に発生した伊予親王の変連座する。

大同5年(810年)9月の薬子の変後に許されて、同年11月従五位下叙爵、翌弘仁2年(811年民部少輔次いで越前介に任ぜられる。嵯峨朝では順調に昇進し、弘仁6年(815年)従五位上、弘仁8年(817年正五位下、弘仁11年(820年)には従四位下に至る。

晩年は修理大夫を務めたが、在職中に病が重くなり[1]、弘仁12年(821年)3月14日卒去享年53。最終官位は修理大夫従四位下。

人物

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才知と技芸を欠いていたという[1]

官歴

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日本後紀』による。

系譜

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脚注

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  1. ^ a b c 『日本後紀』弘仁12年3月14日条。卒伝の文中では「雖無才芸、心存□□」(□は欠字)とあり、才芸がない一方で何らか心がけていた趣旨と想定されるが、内容が伝わらない。
  2. ^ 宝賀[1986: 81]
  3. ^ a b 『尊卑分脈』

参考文献

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  • 森田悌『日本後紀 (中)』講談社講談社学術文庫〉、2006年
  • 森田悌『日本後紀 (下)』講談社〈講談社学術文庫〉、2007年
  • 宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年