橘永継
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時代 | 平安時代初期 |
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生誕 | 神護景雲3年(769年) |
死没 | 弘仁12年3月14日(821年4月19日) |
別名 | 永嗣 |
官位 | 従四位下・修理大夫 |
主君 | 嵯峨天皇 |
氏族 | 橘氏 |
父母 | 父:橘入居 |
兄弟 | 永継、永名、逸勢、御井子、田村子 |
子 | 時枝、数子、藤原仲統室 |
橘 永継(たちばな の ながつぐ)は、平安時代初期の貴族。名は永嗣とも記される。右中弁・橘入居の長男。官位は従四位下・修理大夫。
経歴
[編集]左大臣・橘諸兄の子孫(曾孫)として官に就き、初め内舎人に任ぜられる。大同2年(807年)に発生した伊予親王の変に連座する。
大同5年(810年)9月の薬子の変後に許されて、同年11月従五位下に叙爵、翌弘仁2年(811年)民部少輔次いで越前介に任ぜられる。嵯峨朝では順調に昇進し、弘仁6年(815年)従五位上、弘仁8年(817年)正五位下、弘仁11年(820年)には従四位下に至る。
晩年は修理大夫を務めたが、在職中に病が重くなり[1]、弘仁12年(821年)3月14日卒去。享年53。最終官位は修理大夫従四位下。
人物
[編集]才知と技芸を欠いていたという[1]。
官歴
[編集]『日本後紀』による。
- 時期不詳:正六位上。内舎人
- 大同2年(807年) 11月11日:解官(伊予親王の変連座)
- 大同5年(810年) 11月22日:従五位下
- 弘仁2年(811年) 正月11日:民部少輔。正月29日:越前介
- 弘仁6年(815年) 7月13日:従五位上
- 弘仁8年(817年) 正月7日:正五位下
- 弘仁11年(820年) 正月7日:従四位下
- 時期不詳:修理大夫
- 弘仁12年(821年) 3月14日:卒去(修理大夫従四位下)