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橘逸勢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
橘逸勢
時代 平安時代初期
生誕 延暦元年(782年)?
死没 承和9年8月13日842年9月24日
官位 従五位下但馬権守従四位下
主君 平城天皇嵯峨天皇淳和天皇仁明天皇
氏族 橘氏
父母 父:橘入居
兄弟 永継永名逸勢御井子、田村子
達保?、男子、龍剣、実山、妙仲
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『伊都内親王願文』
(部分)

橘 逸勢(たちばな の はやなり)は、平安時代初期の貴族書家参議橘奈良麻呂の孫。右中弁橘入居の末子。官位従五位下但馬権守従四位下。書に秀で空海嵯峨天皇と共に三筆と称される。

経歴

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桓武朝末の延暦23年(804年)に最澄・空海らと共に遣唐使としてに渡る。中国語が苦手で、語学の壁のために唐の学校で自由に勉強ができぬと嘆いている。おかげで語学の負担の少ないを学んだ。大同元年(806年)遣唐使判官・高階遠成に従い空海らとともに帰国する[1]。帰国後は、唐で学んだ琴と書の第一人者となった[2]

仁明朝に入ると従五位下叙爵し、承和7年(840年但馬権守に任ぜられる。しかし、老いと病を理由に出仕せず、静かに暮らしていた[3]

承和9年(842年)の嵯峨上皇が没した2日後の7月17日に皇太子恒貞親王東国への移送を画策し謀反を企てているとの疑いで、近衛を率いた右近衛少将藤原富士麻呂右馬助佐伯宮成によって、伴健岑と共に捕縛される[4]。両者は参議左大弁・正躬王と右大弁・和気真綱によるで何度も打たれる拷問を含む取り調べを受けたが、両者共に罪を認めなかった[5]。しかし、7月23日には仁明天皇より両者が謀反人であるとの詔勅が出され、春宮坊が兵によって包囲された。結局、大納言藤原愛発中納言藤原吉野参議文室秋津は免官され、恒貞親王は皇太子を廃された[6]。逸勢と健岑は最も重い罰を受け、逸勢は姓を「非人」と改めた上で[7]伊豆国へ、健岑は隠岐国(後に出雲国に移されたが経緯は不詳)への流罪が決まった[8]承和の変)。

逸勢は伊豆への護送中、8月13日に遠江国板築駅で客死し同地に葬られた[9][10]。60余歳という。病没した「板築駅」の場所については以下の説がある。

  • 浜松市北区三ケ日町日比沢付近[10]
  • 「駅」は駅家のことではなく漢文流の表現で、罪人は伝馬で輸送され郡家(郡衙)を宿舎としたことから、袋井市に残る伝承をもとに山名郡家の所在地と推定される袋井市上山梨[10]

このとき、逸勢の後を追っていた娘は板築駅に到達したときに父の死を知り、悲歎にくれた。その娘はその地に父を埋葬し、尼となり名を妙冲と改め、墓の近くに草庵を営み、菩提を弔い続けた[3]。9月に入ると、伊豆国へ配流となっていた逸勢の孫の珍令について、罪人の子孫であっても生計の拠り所がなくなるのは憐れであるとして、配流先から以前の居住地へ呼び戻されている[11]。さらに、嘉祥2年(849年)になってから、逸勢の子息である龍剣・実山らが本姓(橘朝臣)に戻され、入京を許されている[12]

死後、逸勢は罪を許され、文徳朝初頭の嘉祥3年(850年)に正五位下贈位を受けて京に改葬される[10]。さらに、仁寿3年(853年)には従四位下を贈られた。逸勢の娘の妙冲は逸勢に位階が追贈され京に改葬された際に孝女として称えられ、斉衡元年(854年)に遠江国の剰田7町を与えられた尼妙長[13]は妙冲に比定されている[10]。 ために、逸勢は怨霊となったとも当時の人々から考えられ、貞観5年(863年)に行われた御霊会において文屋宮田麻呂早良親王伊予親王などと共に祀られた[1]。そして、逸勢は現在も上御霊神社下御霊神社で「八所御霊」の一柱として祀られている。

逸勢の没後300年以上経過した仁安元年(1166年)には橘以政によって伝記『橘逸勢伝』が著された。

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在唐中、柳宗元に学び、唐の文人から橘秀才と賞賛された。隷書に優れ、宮門の榜題などを書いたという[3]。ただし、逸勢の真跡として確認できるものは今日ほとんど伝わっていない。その中で、空海三十帖冊子の一部分、興福寺南円堂銅燈台銘、伊都内親王願文が逸勢の筆とされていて、確証は未だ見つかっていないものの、逸勢以外の書家から書風の可能性を見出すこともできないため、逸勢の筆との説が有力視されている。

伊都内親王願文

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『伊都内親王願文』(いとないしんのうがんもん)は、桓武天皇の第8皇女・伊都内親王が生母・藤原平子の遺言により、天長10年9月21日833年11月6日)、山階寺東院西堂に香灯読経料として、墾田十六町余、荘一処、畠一丁を寄進した際の願文である。楮紙行書で68行あり、末字に「伊都」の2字がある。朱で捺された内親王の手形が25箇所ある。書風は王羲之風であるが、その中に唐人の新しい気風が含まれており、飛動変化の妙を尽くし、気象博大と評されてもいる。御物

人物

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性格は放胆で、細かいことには拘らなかった[3]

官歴

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橘逸勢伝』による。

系譜

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脚注

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  1. ^ a b 『橘逸勢伝』
  2. ^ 鐘江宏之『律令国家と万葉びと (全集 日本の歴史 3)』140頁
  3. ^ a b c d e f 『日本文徳天皇実録』嘉祥3年5月15日条
  4. ^ 『続日本後紀』承和9年7月17日条
  5. ^ 『続日本後紀』承和9年7月18日,20日条
  6. ^ 『続日本後紀』承和9年7月23日条
  7. ^ 北山茂夫『平安京 日本の歴史4』(中公文庫、1973年)、210p
  8. ^ 『続日本後紀』承和9年7月28日条
  9. ^ 『日本文徳天皇実録』嘉祥3年5月15日条
  10. ^ a b c d e 12 貴族が流された国伊豆”. 静岡県立中央図書館. 2022年1月4日閲覧。
  11. ^ 『続日本後紀』承和9年9月3日条
  12. ^ 『続日本後紀』嘉祥2年10月26日条
  13. ^ 『日本文徳天皇実録』斉衡元年7月26日条
  14. ^ a b 『続日本後紀』嘉祥2年10月26日条

参考文献

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登場する小説

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関連項目

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外部リンク

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  • 橘逸勢伝』新日本古典籍総合データベース