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藤原吉野

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原 吉野
藤原吉野『前賢故実』より
時代 平安時代初期
生誕 延暦5年(786年
死没 承和13年8月12日846年9月6日
官位 正三位中納言
主君 嵯峨天皇淳和天皇仁明天皇
氏族 藤原式家
父母 父:藤原綱継
母:藤原姉子(藤原蔵下麻呂の娘)
兄弟 吉野、吉永、承吉
不詳
近峯、真峯、近主良近、延命
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藤原 吉野(ふじわら の よしの)は、平安時代初期の公卿藤原式家参議藤原綱継の長男。官位正三位中納言

経歴

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式家出身の母(藤原百川の娘・旅子)を持つ淳和天皇とは同年齢で親しく(天皇乳母子とする説もある)、その生涯を天皇の為に捧げる事になる。

若くして大学で学び、嵯峨朝にて主蔵正次いで春宮少進として、当時皇太子であった大伴親王(後の淳和天皇)に仕える。弘仁10年(819年従五位下駿河守に叙任、国司として治績をあげて頭角を現す。

弘仁14年(823年)淳和天皇の即位後はに呼び戻されて、天皇の側近として左近衛少将左少弁を歴任し、天長3年(826年)には蔵人頭となって天皇の政務を助けた。この間に天長元年(824年)従五位上、天長3年(826年正五位下、天長4年(827年)には従四位下に昇叙と、急速に昇進を果たす。天長5年(828年)には参議として公卿に列すと、天長9年(832年)には従三位権中納言に叙任され、右近衛大将春宮大夫も兼任した。

淳和天皇から仁明天皇への譲位に前後して、正三位・中納言に叙任されるが、専ら淳和上皇の傍につき従った。承和7年(840年)に淳和上皇が危篤となり、「自分の遺骨は山から散骨せよ」と遺言すると、吉野はそれに反対したが、間もなく上皇が崩御すると、吉野はやむなくその指示を実行した。こののち、上皇の子である皇太子・恒貞親王の為に尽くすために、1年間出仕せず再三に亘って辞職の上表を行うが、仁明天皇の慰留を受けて中納言の地位に留まっている[1][2]

だが、承和9年(842年)7月の嵯峨上皇の崩御後まもなく、恒貞親王や吉野らは謀反の疑いをかけられてしまう。結局、恒貞親王は廃太子とされ、吉野は大宰員外帥に左遷させられた(承和の変)。さらに承和12年(845年)には大宰員外帥を解かれて、山城国に移されるが入京は許されず、承和13年(846年)8月12日に失意の内に病没した。享年61。最終官位は散位正三位。

人物

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性格は寛大・柔和で包容力があり、人々から慕われた。賢人を見て同じくあろうと思い、手から書物を手放さず、目下の者からも進んで教えを受ける一方、師弟にも教え諭したという。他人の過失を見ても決して白眼視せず、議論するに至っても、法に違う事の主張はしなかった。両親に孝行してほんの僅かな間でも欠けることがなく、の道を共によく励んだ[2]

住まいには樹木を植える事を好み、その様子は竹を愛した東晋の文人・王徽之を彷彿させたという[2]

逸話

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吉野の孝行心を示す逸話として以下がある[2]

  • 吉野が朝廷に出仕して留守の間に、吉野の家に新鮮な肉があるという話を聞きつけて父・綱継が人を遣わせてその肉を求めたが、料理人が惜しんで肉を分け与えなかった。吉野が後にこの話を聞き、料理人を詰って涙を流し、以降決して肉を食べなかったという。

官歴

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注記のないものは『六国史』による。

系譜

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脚注

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  1. ^ 『続日本後紀』承和9年2月29日条
  2. ^ a b c d 『続日本後紀』承和13年8月12日条
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『公卿補任』
  4. ^ 『蔵人補任』

参考文献

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  • 森田悌『日本後紀 (中)』講談社講談社学術文庫〉、2006年
  • 森田悌『日本後紀 (下)』講談社〈講談社学術文庫〉、2007年
  • 森田悌『続日本後紀』(上下巻)、講談社〈講談社学術文庫〉、2010年
  • 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
  • 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年