橘海雄
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時代 | 平安時代初期 - 前期 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
官位 | 従四位下[1]・右京大夫 |
主君 | 仁明天皇→文徳天皇→清和天皇 |
氏族 | 橘氏 |
父母 | 父:橘長谷麻呂 |
兄弟 | 海雄、数雄、伴雄 |
子 | 茂枝 |
橘 海雄(たちばな の あまお)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。弾正大弼・橘長谷麻呂の子。官位は従四位下・右京大夫。
経歴
[編集]承和8年(841年)従五位下・民部少輔次いで右衛門権佐に叙任。翌承和9年(842年)左京采女町の西北4分の1を賜与される[2]。のち、刑部少輔・兵部少輔・弾正少弼を経て、承和13年(846年)備前守として地方官に転じる。
翌承和14年(847年)には早くも左少弁に任ぜられて京官に復帰すると、仁明朝末から文徳朝にかけて弁官を務め、仁寿3年(853年)には蔵人頭兼左中弁に至る一方で、嘉祥3年(850年)従五位上、仁寿4年(854年)正五位下と昇叙されている。またこの間、嘉祥2年(849年)には渤海使の帰国にあたり勅書と太政官牒を伝達するために、参議・小野篁らと共に鴻臚館へ派遣されている[3]。
しかし、斉衡3年(856年)病気により蔵人頭を辞任し、翌斉衡4年(857年)従四位下・越前守に叙任され再び地方官に転じる。清和朝に入り貞観元年(859年)右京大夫として再び京官を務めている。
官歴
[編集]注記のないものは『六国史』による。
- 承和8年(841年) 2月6日:民部少輔。4月5日:右衛門権佐
- 承和9年(842年) 7月25日:刑部少輔。8月11日:兵部少輔
- 承和10年(843年) 3月2日:弾正少弼
- 承和13年(846年) 7月10日:備前守
- 承和14年(847年) 2月11日:左少弁
- 嘉祥2年(849年) 正月13日:右少弁
- 嘉祥3年(850年) 正月7日:従五位上
- 仁寿2年(852年) 2月28日:右中弁。9月7日:晏子内親王群行の長奉送使
- 仁寿3年(853年) 正月16日:左中弁。9月:蔵人頭[4]
- 仁寿4年(854年) 正月7日:正五位下
- 斉衡3年(856年) 正月:辞蔵人頭[4]
- 斉衡4年(857年) 正月7日:従四位下。正月14日:越前守
- 天安3年(859年) 2月13日:右京大夫
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。
- 父:橘長谷麻呂
- 母:不詳
- 生母不詳の子女
- 男子:橘茂枝