橘長谷麻呂
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時代 | 平安時代初期 |
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生誕 | 宝亀10年(779年) |
死没 | 天長元年2月9日(824年3月12日) |
官位 | 従四位下・弾正大弼 |
主君 | 嵯峨天皇→淳和天皇 |
氏族 | 橘氏 |
父母 | 父:橘島田麻呂 |
兄弟 |
真材、長谷麻呂、有主、千株、常主、 常子、春澄善縄室、藤原貞本室 |
子 | 海雄、数雄、伴雄 |
橘 長谷麻呂(たちばな の はせまろ)は、平安時代初期の貴族。兵部大輔・橘島田麻呂の次男。官位は従四位下・弾正大弼。
経歴
[編集]若い頃より大学寮で学び、『史記』や『漢書』を非常によく読んだ[1]。
弘仁5年(814年)皇太子・大伴親王(のち淳和天皇)が南池を訪問して文人に詩賦を命じた際、春宮大進であった長谷麻呂は昇叙されて従五位下に叙爵した。のち、民部少輔・右少弁を経て、弘仁11年(820年)従五位上、弘仁13年(822年)正五位下、弘仁14年(823年)従四位下と嵯峨朝末に急速に昇進する。
淳和天皇の即位後まもない弘仁14年(823年)6月には蔵人頭に任ぜられて左中弁を兼ねるなど重用される。しかし、のち病に伏し[1]、翌天長元年(824年)2月9日卒去。享年46。最終官位は弾正大弼従四位下。
人物
[編集]穏やかで優しい性格で、世人の心情に逆らうことはなく、物事を決定する際に法に違うことがなかった。酒を思う存分飲んで憂さを晴らすような所もあった[1]。
官歴
[編集]『日本後紀』による。
- 時期不詳:正六位上。春宮大進
- 弘仁5年(814年)8月11日:従五位下
- 弘仁6年(815年)正月12日:民部少輔。5月15日:右少弁
- 弘仁11年(820年)正月7日:従五位上
- 弘仁13年(822年)正月7日:正五位下
- 弘仁14年(823年)正月7日:従四位下。6月:蔵人頭[2]
- 時期不詳:左中弁[2]。弾正大弼[2]
- 天長元年(824年) 2月9日:卒去(弾正大弼従四位下)
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。