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橘淑信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

橘 淑信(たちばな の よしのぶ、生没年不詳)は、平安時代中期の貴族式部大輔橘敏通の子。官位従四位上式部大輔[1]

経歴

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代々の儒家に生まれる。慶滋保胤と同じころの文章生であり、のち対策に及第した。また、村上朝後期の応和2年(962年)6月の学問料申請のための弓場殿試に不参の文章生として名がみえる[2]

花山朝寛和2年(986年)2月に式部少輔としてその名が見え、永延2年(988年)ごろまでその官にあった。また、永延2年(988年)省試の試験官を務め、中納言藤原道長の推挙を受けて応試した甘南備永資を落第させる。これに怒った道長から従者を差し向けられ、道長邸に拉致されて試験結果を改ざんするよう迫られる事件が発生している[3][4]

ある冬の一日、石見守の任を終えて都に帰り、宣風坊にある家に住んでいた藤原有国の元を式部少輔・橘淑信が懐旧の情に駆られて訪ね、懐旧談に及んだエピソードがある [5]

脚注

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  1. ^ 『尊卑分脈』。「橘氏系図」(『続群書類従』巻第108所収)では位階を従四位下とする。
  2. ^ 平林 2001, p. 9.
  3. ^ 『小右記』永延2年12月4日条
  4. ^ 赤城 1969, p. 167.
  5. ^ 学術文献刊行会 2001, p. 63.

参考文献

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  • 平林盛得『慶滋保胤と浄土思想』(吉川弘文館、2001年、9p)
  • 学術文献刊行会編『国文学年次別論文集 中古 - 第 1 巻』(朋文出版、2001年、63p)
  • 赤城志津子『御堂関白藤原道長―栄華と權勢への執念―』(秀英出版、1969年、167p)