横山一平
横山 一平(よこやま いっぺい、1862年6月25日(文久2年[注 2]5月28日)- 1932年(昭和7年)6月10日)は、江戸末期から昭和初期の実業家、政治家。加賀藩の世襲家老[注 3]である加賀八家の一つ横山家(3万石)の一族の出身。家紋は丸に左万字。衆議院議員、勲四等。
経歴
[編集]江戸時代末に、加賀金沢藩の加賀八家と称された世襲家老[注 3]である横山氏の一族[注 4]、金沢藩士横山隆三の次男に生まれる[1]。明治10年に東京に出て[3]、実業や政治・言論の場で活躍。とりわけ捕鯨業においては、日本の捕鯨法が旧式のためロシア等の外国船のなすがままに資源を取られ国益を損なっていることに憤慨し、日本の国家の最善の利益のために資本を集めて近代化を図る必要があると考え、旧知の海軍少将船木鍊太郎を社長に、自らは専務取締役として大日本捕鯨会社を設立[4]。その後、長州出身で同じく捕鯨の近代化を図っていた岡十郎の東洋漁業株式会社等と大同合併し、明治42年3月に東洋捕鯨株式会社を設立[5]、当初は岡が、大正12年1月岡の死後は一平が自ら社長[1]として事業を拡大し、日本の捕鯨業の近代化を進めその基礎を築いた[注 1]。
また、旧知の福地桜痴らとともに、大阪の中心地・梅田に西洋風の外観の劇場「大阪歌舞伎」を建設し[6]、杮落とし公演で九代目市川團十郎の初めての来阪を実現して話題を呼んだ[7][注 5]。
金沢においても、本家当主(横山男爵家[注 3])の横山隆俊や一族の隆興・章等が石川県で横山鉱業部などの諸事業を成功させ、「金沢は横山でもつ」[8][9]とも日本の「三大鉱山華族」とも称される[10]石川県随一の経済力を有するようになったのと手を携え[11]、金福鉄道取締役[2]や横山隆俊・章らとの共同による金沢電気軌道の設立や逝去直前まで二度にわたり社長をつとめるなど活躍。その他日本各地や朝鮮半島において幅広く活躍し各社の社長を歴任した[1][注 1]。
また、初期には侯爵西郷従道・子爵品川弥二郎の賛助を得て[3][12]義侠館を設立しその会長となったり、明治37年、第9回衆議院議員総選挙に千葉県選出で当選し、衆議院議員を1期[注 6]務めるとともに[1]、同郷の評論家・三宅雪嶺(雄二郎)や、三宅を介して中野正剛と縁戚関係[1][注 7]にあり、一平自身の思想的・政治的活動への関心も高かった。
親族
[編集]妻
[編集]- 俊 (1870年4月22日(明治3年3月22日)- 1900年(明治33年)9月25日)享年31。加賀藩の儒学者尾佐竹保の長女であり、一俊、俊平、山城、俊子、多嘉子の実母である[注 8]。
- 實 (1884年(明治17[注 9]年)11月 - 1945年(昭和20年)1月24日)享年61[13]。尾佐竹保の三女で、俊の早逝後の後添えとして、一平の多くの子を育てた。
尾佐竹猛との親交
[編集]妻の俊及び實は、明治文化研究会の主宰者の一人で明治維新史等の研究で著名な法律家・歴史家の尾佐竹猛の姉妹[1]である。猛は、その長姉である俊とその夫・一平の支援の下に、金沢を出て東京での修養に努めた様子がうかがえる[14]。俊の早逝後も横山一平と尾佐竹猛とのかかわりは深く、一族での写真[15]や、自宅も近く[注 10]であり、一平の長女の俊子[1]が渋沢栄一の紹介で宇治原退蔵[18]に嫁す[1]際、宇治原家の求めに応じて横山家の由緒を証すために猛が筆を執ったと伝えられる[注 4]。
子
[編集]- 横山一俊[19] (1890年(明治23年)1月 - 1981年(昭和56年)3月13日)享年92[20]。京都帝国大学法科卒、内務官僚、正五位勲五等。妻は評論家・三宅雪嶺の三女・淑(1901年(明治34[注 9]年)3月 - 1980年(昭和55年)12月21日)、享年79[20]。
- 横山俊平[21] (1892年(明治25[注 9]年)10月 - 1973年(昭和48年)5月16日)享年81[20]。東京帝国大学文科卒、文部官僚、従四位勲四等。妻は内務官僚・政治家の塚本清治[22]の長女・静子(1906年(明治39年)1月生まれ)。
- 宇治原俊子 (1894年(明治27年)5月 - 1978年(昭和53年)3月7日)。三輪田高等女学校出身、宇治原退蔵[注 11]の妻
- 横山山城 (1895年(明治28年)4月生まれ)[25]
- 山本多嘉子 (1897年(明治30年)10月生まれ) 三輪田高等女学校出身[12]、海軍少将の山本順平の妻[26]
- 不破祐俊[27] (1902年(明治35年)1月生まれ) 洋酒洋食品商「不破商店」・不破外喜次郞[注 12][28]の養子となる。東京帝国大学社会学科卒、文部官僚、後に会社役員、従六位勲六等。妻は慶應義塾大学医学部教授草間滋の長女・美恵子。
- 鷹栖鈴子 (1904年(明治37年)5月生まれ) 鷹栖愛の養子[1]となり、医師の鷹栖才治を養子に迎えて、鷹栖家を再興。
- 湯浅繁子 (1908年(明治41年)3月生まれ) 三輪田高等女学校出身[1]、応用昆虫学者の湯浅啓温の妻[19]
- 福島公 (1910年(明治43年)3月生まれ) 実業家・政治家の福島宜三[29]の養子となる[1]。
- 横山隆正 (1913年(大正2年) - 1991年(平成3年)10月1日)享年79。いすず自動車取締役、近畿いすず会長をつとめた。妻は和子(1921年(大正10年) - 1963年(昭和38年)9月16日)、享年43。
- 中村克子 (1917年(大正6年)1月生まれ)[1]、会社役員の中村成勝の妻。
住居
[編集]四谷霞岳町15番地(新国立競技場整備着手前の明治公園の霞岳広場の一部、2019年建替後の国立競技場のEゲート直下周辺)に西洋館[注 13]及び日本館から成る屋敷を構え、昭和7年に同地で逝去、享年71[注 1]。没後の昭和12年1月30日からは同郷の林銑十郎内閣の組閣本部として用いられ[注 14]、その際の邸宅周辺の写真や一族の様子[31]が新聞記事に見られる[32]。
注釈
[編集]- ^ a b c d 横山家墓所にある「横山家墓誌」には、「隆光院諱は一平 金澤藩士横山隆三の次男資性豪放少壮上京日露戦役當時衆議院議員たり又實業界に在りては東洋捕鯨株式會社社長として我國捕鯨事業の基礎を築く其他金澤電氣軌道株式會社を始め數多の會社社長として活躍昭和七年六月十日歿す享年七十有一」と記されている。
- ^ 人事興信録[1]においては文久3年(1863年)生まれとし、ネット上には同様の例が多く見られるが、他の文献においては文久2年(1862年)とするもの[2]がある。逝去が昭和7年(1932年)であることは各文献で概ね一致し、金沢電気軌道社長を後任に交代した経緯及び時期と合致すること、また一平の墓誌[注 1]においては昭和7年(1932年)に享年71で逝去したことが記されていることから、文久2年(1862年)生まれとした。
- ^ a b c 横山家などの加賀八家は、正確には職としての家老とは別に、加賀藩前田家中で最高位に位置づけられ藩主名代としての活動などを担う世襲・固定化された年寄衆8家の総称であり、いずれも1万石を越える大名並みの石高を有していた。藩主前田家の家臣であるので徳川将軍家からみれば陪臣であるが、徳川御三家の御附家老と同様に幕府の武家官位授与の対象となり、例えば横山家では従五位下山城守などに任じられてきた。維新後は年寄制度は廃止されるが、明治33年5月に加賀八家全てが男爵に列せられた。本文中の「横山男爵家」とは、この男爵位を世襲した横山家の本家嫡流を指す。
- ^ a b 尾佐竹猛の筆によると伝えられる「横山氏系譜 抄」に、「横山 姓ハ小野 孝昭天皇ノ皇子彦國押人尊ノ後小野妹子ニ出ツ 妹子ノ玄孫参議篁七世ノ孫相模横山ニ居リ因リテ氏トス 二十世ノ孫長隆前田利家ニ仕ヘ子孫相継キ参萬三千石ヲ食シ十一世隆平男爵ヲ授ケラル 支流十一家アリ豹㶓󠄁牛右衛門隆三ヲ経テ一平ニ至リ新ニ一家ヲ創立ス」と記されている。
- ^ 明治31年2月に開場したが、翌明治32年1月に火事で焼失し、以後再建されなかった。
- ^ 一平の末子である克子によると、本人はさらに選挙に出馬し2期以上務めたかったものの、周囲の家族から選挙に出ると家が潰れると猛反対にあって断念した、とのことである。
- ^ 長男・一俊の妻の淑は、三宅雪嶺の三女である。その姉(三宅雪嶺の長女)・たみは、中野正剛の妻である。
- ^ 墓碑の裏面には、「隆秋院夫人諱俊明治三年三月廿二日生於金澤藩士尾佐竹保之長女廿一年嫁一平君自芳慈敬大有婦徳卅三年九月廿五日逝壽卅一歳一俊俊平山城俊子多嘉子皆其出也朋友知人惋惜不措東久世伯為書墓面福地源一郎誌之」と記されている(正しくは、碑銘中「廿」は2つの縦線を結ぶ下線が無く、「福」の左は「示」、右の「口」は「はしご」)。
- ^ a b c 享年から逆算した生年とずれがあり、信頼の置ける文献等による検証を要する。
- ^ 人事興信録[16]にある尾佐竹猛の千駄ヶ谷町の自宅は、現在の外苑西通りをはさんで四谷霞岳町の一平の自宅から至近である。また、森鴎外の初期の歴史小説「津下四郎左衛門」[17]の中では、「尾佐竹猛さん(中略)は今四谷区霞丘町に住んでゐる。」と紹介されている。
- ^ 宇治原退蔵(1883年(明治16年)6月24日 - 1920年(大正9年)10月8日)。彦根の出身で、東京帝国大学法科から渋沢栄一の知己を得て第一銀行に勤め、栄一の紹介により一平の長女・俊子と結婚。渋沢栄一の配車記録には、大正2年12月25日の欄に浅草・大松閣で午後4時に宇治原退蔵氏結婚披露との記載が見られる。大正9年に四日市[23]にて逝去、享年38[24]。その長女・酒井知恵子によると、退蔵は一平の別荘があった静岡・清水の三保灯台あたりの海辺の松原の景色を好み、近くに葬られることを望んだことから、三保の松原に近接して最初の墓が設けられたという。
- ^ 明確な記録が現時点で見当たらず不明確であるが、旧加賀藩の要職にあった不破家(4500石)の一族と推察される。
- ^ 観音坂を下り今は暗渠となった渋谷川(穏田川)の観音橋をそのまま東へ伸びていた道路をはさんで初代の国立競技場と対面しており、一平の末子・克子によると、西洋館の2階から中の競技の様子を観覧できたという。東京大空襲により焼失し、後に周辺一帯と共に収用され明治公園となる。
- ^ 当時の当主は一平の長男・一俊[19]であるが、宮城県庁に赴任中のため邸内に余裕があり、林[30]は一平と同じく加賀出身で親交があり、近くの千駄ヶ谷町在住であったことから、組閣にあたり依頼されて貸与したものである。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m 横山一平 『人事興信録 第9版』(昭和6年)ヨ14頁-15頁。(国立国会図書館デジタルコレクション)。
- ^ a b 『議会制度七十年史. 第11』、衆議院・参議院編、大蔵省印刷局印刷。547頁。
- ^ a b 『北陸人物名鑑 大正11年版』 115頁。(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 『快侠山田喜久次郎君』、小林蹴月編、(中央新聞社)、199-200頁。
- ^ 防長と鯨(2)~明治以降の展開~(山口県文書館)。2021年4月3日閲覧。
- ^ 『快侠山田喜久次郎君』、小林蹴月編、(中央新聞社)、206頁。
- ^ 藤岡真衣「梅田の「大阪歌舞伎」 : 明治31年に開場した新築劇場」『大阪都市遺産研究』第3号、関西大学大阪都市遺産研究センター、2013年3月31日、21-37頁、NAID 120006497547。
- ^ ZOZO前澤社長、京都“幻の別荘”購入 旦那衆からは不安の声(週刊新潮 2018年11月29日号掲載)。2023年10月11日閲覧
- ^ 「金沢は横山で持つ」由緒ある建物「石川国際交流サロン」(「美・プレミアム オフィシャルWEBサイト 世界は美しい!」掲載) 。2023年10月11日閲覧
- ^ 松村敏「明治前期,旧加賀藩家老横山家の金融業経営と鉱山業への転換 : 鉱山華族横山家の研究(1)」『商経論叢』第53巻1・2、神奈川大学経済学会、2018年1月31日、127-175頁、ISSN 0286-8342、NAID 120006422301。
- ^ 小川功「加賀の名門"横山財閥"の企業統治能力 : 横山章・俊二郎兄弟の地元私鉄関与を中心に」『彦根論叢』第417号、滋賀大学経済学会、2018年、66-80頁、ISSN 0387-5989、NAID 120006533782。
- ^ a b 横山一平 『人事興信録 第四版』(大正四年)(名古屋大学法学研究科)
- ^ 横山家墓所の「横山家墓誌」に記載されている。
- ^ 鈴木秀幸「近代史の中の郷土-加能地方出身の尾佐竹猛について-」『大学史紀要』第10巻、明治大学大学史料委員会、2006年3月、88-138頁、ISSN 1349-8231、NAID 120005258038。
- ^ 一枚目に横山家と尾佐竹家の一族での写真。(尾佐竹猛 石川県志賀町)
- ^ 尾佐竹猛 『人事興信録 第八版』(昭和3年)(名古屋大学法学研究科)
- ^ 『津下四郎左衛門』、森鴎外、(大正4年発表)、(青空文庫)
- ^ 宇治原退蔵 『人事興信録 第四版』(大正四年)(名古屋大学法学研究科)
- ^ a b c 横山一俊 『人事興信録. 第13版下』(昭和16年)ヨ15頁。(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ a b c 墓碑に記されている。
- ^ 横山俊平 『人事興信録. 第14版 下』(昭和18年)ヨ16頁。(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 塚本清治 『人事興信録 第11版 下』(昭和12年)ツ23-24頁。(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 当初の墓碑銘に記されている。渋沢栄一とのかかわりや墓面の書を顕したことなどが記されていたが、改葬の際に失われた。
- ^ 宇治原家墓所の墓碑に記されている。
- ^ 横山一平 『人事興信録. 3版(明44.4刊)皇室之部、皇族之部、い(ゐ)之部―の之部』(明治44年)ヨ21頁。(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 山本順平 『人事興信録. 第13版下』(昭和16年)ヤ163頁。(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 不破祐俊 『人事興信録. 第13版下』(昭和16年)フ1頁。(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 官報 1904年06月29日
- ^ 福島宜三 『人事興信録 第四版』(大正四年)(名古屋大学法学研究科)
- ^ 林銑十郎 『人事興信録 第11版 下』(昭和12年)ハ128頁。(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「風雲児 十河信二(「十河信二伝」中島幸三郎著、昭和30年刊、p234-304)」。4の終わりから6にかけて描写あり。
- ^ 新聞記事の例など、初の加賀出身の内閣総理大臣就任に際して組閣本部となった横山邸の様子などが、昭和12年1月31日~2月2日付け各紙の記事となっている。
参考文献
[編集]一平の本家にあたる横山男爵家や隆興・章らによる横山鉱業部などの財閥経営は、第1次世界大戦後の不況の中で一平の晩年期には破綻状態に陥っており、厳しい状況にある本家を一平も支援したと伝わる。一平は事業を子に継がさず、また地方財閥としての横山財閥も消滅したが、参考文献にあるように横山一族の文化への深い造詣は、後世に金沢・寺町の別邸跡(現・金茶寮及び辻家庭園)、京都・南禅寺の別邸「智水庵」、東京・般若苑に移築された能舞台など、ゆかりの文化財として各地に残されている。