武内鶴之助
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武内 鶴之助(たけうち つるのすけ、1881年(明治14年)10月24日 - 1948年(昭和23年)8月23日[1])は、神奈川県出身の洋画家。浦和画家。日本におけるパステル画の草分けの一人。
人物
[編集]幼児から絵に親しみ、日露戦争に衛生兵として出征した時も、暇を見つけては絵を描いていた[2]。渡英後「月光のアンバレー」はロイヤル・アカデミーに入賞し、外務大臣を務めたランズダウン卿に買い上げられた。滞英中にパステル画に出会い、帰国後本格的に手掛けるようになる。1924年(大正13年)浦和に移住し、浦和画家のひとりとなった。埼玉県立近代美術館に作品が所蔵されている。
経歴
[編集]- 1881年(明治14年) - 神奈川県横浜市に生まれる。
- 1906年(明治39年) - 25歳、白馬会研究所に入り学ぶ。
- 1909年(明治42年) - 28歳、横浜正金銀行ロンドン支店副支配人であった兄の金平を頼り渡英。ロンドン美術学校に入り、ブラングィンとスワンに師事し油絵を学んだ。
- 1910年(明治43年) - ロイヤル・アカデミーに「ウインブルドン公園」を出品し、初入選。第四回文展にもイギリスから「倫敦郊外の夕霧」を出品した。この頃三宅克己を知り後年まで親交を深めた。また、石橋和訓の紹介でアルフレッド・イーストに師事し、一時マンシントン学校でも学んだ。
- 1924年(大正13年) - 埼玉県浦和町に転居。浦和画家のひとりとなる。
- 1932年(昭和7年) - 交詢社で33点による個展を開催。
- 1948年(昭和23年)8月23日 - 66歳、脳溢血で倒れ死去。