武田信貞
時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 弘治3年(1557年)[1] |
死没 | 寛永3年6月23日(1626年8月14日)[1] |
別名 | 油川信貞、仁科信貞、勝松(幼名)、武田源兵衛 |
戒名 | 浄円(浄圓) |
墓所 | 長龍寺(北杜市) |
主君 | 武田信玄→勝頼→徳川家康→秀忠 |
氏族 | 源姓甲斐武田氏流油川氏 |
父母 | 父:油川信次(信俊) |
妻 | 大井虎昌の娘 |
子 | 信忠(油川信忠、信成) |
特記 事項 | 父を仁科盛信とする説あり |
武田 信貞(たけだ のぶさだ)は、戦国時代の武将、江戸時代初期の旗本。油川信貞とも。父は油川信次(信俊)、幼名は勝松、通称は源兵衛[1]。『寛政重修諸家譜』によれば、妻は大井虎昌の娘で、信貞の子には油川信忠(武田信忠)がいる[2]。大伯父油川弥九郎信貞は同名の別人。
概要
[編集]武田信玄・勝頼の時代
[編集]永正5年(1508年)勝山合戦にて壊滅した後も生き残った信友(信守)の孫である[2]。
信次は天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いにおいて討死し、油川氏の家督を相続したと考えられる。
武田氏滅亡後
[編集]天正10年(1582年)の織田信長による武田氏滅亡後、本能寺の変で信長が死去して発生した天正壬午の乱を経て甲斐を領した徳川家康に仕官し、知行38貫文を安堵された[1]。天正壬午起請文の油川信守か?
関ヶ原の戦いにも東軍に属して参陣し、大坂の陣では伏見城在番を務めた[1]。
江戸時代
[編集]寛永2年(1625年)10月、武蔵国都筑郡・上総国埴生郡・武射郡に350石を与えられた[1]。
寛永3年(1626年)に70歳で死去した(『寛永伝』)[1]。
仁科氏説、同一人物説
[編集]仁科氏説
[編集]仁科盛信の子孫が作成した正徳2年(1712年)の「八王子信松院江納候由緒之控」では長篠合戦以降も存命し、天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡後に仁科盛信の次男・武田信貞を保護したとする異説を記している[2]。仁科氏、油川氏共に甲斐武田氏の一族である。
同一人物説
[編集]武田信貞の没年に関して『寛政重修諸家譜』では享年を「今の呈譜五十五」と記し、これは武田奉行人の浄円と法名が一致することから、同一人物である可能性が指摘される[1]。浄円は武田家の奉行人で、長篠合戦以降に駿東郡東部において活動している所見が見られる[3]。浄円が信貞と同一人物である場合には出家していたことになり、父油川信次の嫡男が長篠合戦で戦死し、仏門に入っていた浄円が還俗して油川家の家督を継いだ経緯などが考えられている[4]。
死亡年からの考察
[編集]また、「八王子信松院江納候由緒之控」の所蔵者は家伝文書と菩提寺の長竜寺過去帳を基に系譜を作成しており、これによれば武田信貞は寛永3年(1626年)6月28日に享年50で死去し、法名は「活巌院殿相心浄円居士」としており、命日は数日異なっているものの法名の「浄円」が共通することが指摘される[5]。また、寛永3年(1626年)に死去したとする説から生年は天正5年(1577年)となり、仁科盛信と親子としては世代的に矛盾がないことが指摘される[2]。
その他
[編集]子孫は油川から武田に復姓し、江戸時代を通じて旗本として存続した。明治時代に兵庫県へ移住し、以後も存続している。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h 丸島(2015)、p.52
- ^ a b c d 丸島(2015)、p.53
- ^ 丸島(2015)、p.383 - 384
- ^ 丸島(2015)、p.384
- ^ 丸島(2015)、pp.52 - 53
参考文献
[編集]- 北澤繁樹『仁科氏』(東京図書出版会、2010年)
- 丸島和洋「油川信貞」「油川信次」「浄円」 柴辻俊六・平山優・黒田基樹・丸島和洋編『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年