武田紀
たけだ とし 武田 紀 | |
---|---|
生誕 |
1925年3月1日 高知県高知市鷹匠町 |
洗礼 | 1946年 |
死没 |
2010年1月5日(84歳没) 高知県香美市土佐山田町 |
死因 | 膵癌 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 高知県立高知第一高等女学校 |
時代 | 昭和 - 平成 |
団体 | 高知慈善協会 |
著名な実績 |
高知博愛園での児童の育成 青涛の家でのDV被害者の保護 |
影響を受けたもの | 岡上菊栄 |
活動拠点 | 高知博愛園 → 青涛の家 |
前任者 | 今井清子(博愛園)[1] |
宗教 | キリスト教(カトリック) |
受賞 |
社会貢献者表彰(2001年) 高新大賞(2002年) 瑞宝双光章(2008年) |
武田 紀(たけだ とし、1925年〈大正14年〉3月1日[2] - 2010年〈平成22年〉1月5日[3])は、日本の児童福祉家、社会事業家。高知県高知市の児童養護施設である高知博愛園(こうちはくあいえん)の3代目園長であり[4]、初代園長である岡上菊栄の精神を受け継ぎ、40年以上にわたって児童育成に貢献した[5]。博愛園を退職後は、DVシェルターの先駆けとなる民間施設を創設し、ドメスティックバイオレンス(DV)の被害者の保護に努めた[5][6]。
経歴
[編集]高知県高知市鷹匠町で誕生した[7]。高知県立高知第一高等女学校(後の高知県立高知丸の内高等学校)を卒業後[6][7]、終戦時の1945年(昭和20年)に、「人間を心から大切にする仕事に就きたい」と決意して高知刑務所に勤務、受刑者の家族のケースワーカーとなった[2][6]。生活苦の者に密かに自分の給料を送り、美談として新聞で報じられたこともあった[8]。翌1946年(昭和21年)にカトリックの洗礼を受け、キリスト教徒となった[2]。
女学校卒業時に博愛園を見学していたことと[8]、1946年に軍政部のケースワーカー募集に応募した際に通訳を務めた岡上千代(岡上菊栄の三女)からの誘いが縁で[7][9]、1947年(昭和21年)3月より博愛園に勤務し[2][10]、岡上菊栄と寝食を共にした[6]。菊栄が高齢のために退職するまで、約1か月の短期間ではあったが、菊栄から児童の養育法を学んだ[6]。同1947年に3代目園長に就任し[3]、戦災孤児や、恵まれない児童たちの養育にあたった[3][11]。
1989年(平成元年)年3月に、博愛園を定年退職した[6]。その後も「人間尊重の世の中のために尽したい」と願い[2]、1989年(平成元年)に[2]、高知ボランティアビューローの所長を務めたシモンズ・レオナルド神父らと共に[3]、DV被害者を保護する民間施設「青濤の家(あおなみのいえ)[12]」を創設[6]。被害を受けた女性たちを家族同然に迎え入れ、傷心の回復に尽くした[3]。それまであまり知られなかったDVへの関心が社会的に高まった後には、DVの講師も務めて、DV被害女性の思いを社会へ発信した[2]。
2001年(平成13年)に「青涛の家」の功績により、社会貢献支援財団から社会貢献者表彰を受けた[2][3]。表彰式の日、「この表彰は青濤の家の活動でくれるそうよ。子供の福祉ではないのよね」と語っていた[6]。翌2002年(平成14年)には高知新聞社主催による高新大賞を受賞、2008年(平成20年)には瑞宝双光章を受章した[6]。
2000年代は入退院を繰り返す身となり[3]、2010年(平成22年)1月5日、香美市土佐山田町の自宅で、膵癌により84歳で死去した[3]。「龍馬に注目が集まる今年、菊栄にもぜひ光を当てて」と言い遺していたことから、同2010年4月には菊栄を語る講演会が高知市内で開催された[13]。同4月には博愛園の創立100年記念式典が開催され、紀や菊栄の功績が称えられた[14]。
人物
[編集]紀にとって、博愛園は職場ではなく家庭であり、子供たちには家族同然に接し、私生活、私財の全てを投入していた[15]。博愛園出身者たちには、いつまでも「お母さん」「お婆ちゃん」と慕われた[15]。進駐軍のアメリカ兵と日本女性の間に生まれた少女を同園で保護して、アメリカ一家の養女にしようと奔走したこともあり[3][11]、この少女は渡米して家庭を持った後も、紀を実母同然に敬って「スペシャル・マイ・マザー」と呼んでいた[11]。
青涛の家でも開設や運営にあたっては、「申請の際に入所者のプライバシーが漏れる可能性がある」として[2]、国、県、市などの補助を受けずに、DVで傷を負った女性たちを、無条件に受け入れた[5]。助けを求める声があれば、深夜でも早朝でも助けに走る生活を送った[5]。自殺寸前に救われて、新たな生活へ踏み出した女性もいた[5]。晩年に入院中も、博愛園出身者たち、青涛の家出身の女性たちが訪れ、紀はそのたびに母同然に優しく接していた[3]。キリスト教信仰に基づくその精神は、「日本のマザー・テレサ」との声もある[16]。
その一方で、博愛園で菊栄を神同然に慕っていた職員には、20歳代の若さで園長となった紀が物足りなく映ったか、紀が白い割烹着で、田の畦道で1人で泣いている姿もしばしば見られた[6]。菊栄の生涯を著した作家の武井優に会うと、紀はそのたびに菊栄を賛美し敬っていた[6]。また、博愛園で子供の幸福のために母親になりきろうとして、職員にも同じ思いを求める姿勢は、近代的な8時間労働などの労働観にはほど遠かったため、博愛園職員らが組合を結成して「ろくに休暇も取らせない」と抗議し、紀は神と隣人への感謝以外ほとんど口にしないにもかかわらず、「一部の人たちがわけのわからないことを言って」と不満を漏らしたこともあった[16]。
脚注
[編集]- ^ 前川 1998, p. 121
- ^ a b c d e f g h i j “武田紀 : 平成13年度「社会貢献者表彰」受賞者紹介”. 社会貢献支援財団 (2021年). 2022年3月6日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j 「訃報 元博愛園園長、子や女性支え 武田紀さん死去 84歳」『高知新聞』高知新聞社、2010年1月7日、朝刊、27面。
- ^ 横田一「社会福祉法人風土記〈45〉高知慈善協会 中 公がやらない事業へ力注ぐ」『福祉新聞』福祉新聞社、2019年2月14日。2022年3月6日閲覧。
- ^ a b c d e 渡辺 2010, p. 6
- ^ a b c d e f g h i j k 武井優「武田紀さん(元博愛園園長)を悼む 貫いた「子どもには愛を」」『高知新聞』2010年1月14日、朝刊、25面。
- ^ a b c 武井 2003, p. 321
- ^ a b 武井 2003, p. 324
- ^ 武井 2003, pp. 322–323
- ^ 前川 1998, p. 122
- ^ a b c 広末智子「米在住メリーさん 36年ぶり帰高 博愛園の“父母”と再会 差別、偏見乗り越えた 来月中旬まで滞在 実母の情報求める」『高知新聞』2007年9月16日、朝刊、28面。
- ^ DV被害女性を加害者からの追跡から守るため、場所は一切公表されていない[2]。
- ^ 「龍馬のめい 岡上菊栄の生涯語る 24日 県立文学館」『高知新聞』2010年4月12日、朝刊、20面。
- ^ 野村圭「博愛園が創立100年 岡上菊栄らの功績しのぶ 香美市」『高知新聞』2010年4月25日、朝刊、31面。
- ^ a b “幸せを感謝し幸せを祈ります 〜 武田 紀(とし)さん 〜”. 高知慈善協会. 2022年3月6日閲覧。
- ^ a b 石塚直人 (2010年2月10日). “日本の「マザー・テレサ」武田紀さんを悼む”. まねき猫通信. 社会福祉法人 ぷくぷく福祉会. 2022年3月6日閲覧。
参考文献
[編集]- 武井優『岡上菊栄の生涯 龍馬の姪』鳥影社、2003年3月3日。ISBN 978-4-88629-736-5。
- 前川浩一 著、一番ヶ瀬康子他編 編『岡上菊栄』大空社〈シリーズ福祉に生きる〉、1998年12月25日。ISBN 978-4-7568-0844-8。
- 渡辺瑠海「受け継いで、実践!「まさしく“龍馬スピリッツ”」」(PDF)『飛騰』第75号、高知県立坂本龍馬記念館、2010年10月1日、全国書誌番号:01018231、2022年3月6日閲覧。