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殷承瓛

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殷承瓛
プロフィール
出生: 1877年光緒3年)
死去: 1945年民国34年)
または1946年(民国35年)
中華民国の旗 中華民国雲南省昆明市
または上海特別市
出身地: 清の旗 雲南省曲靖府六涼州(陸涼州)
職業: 軍人・政治家
各種表記
繁体字 殷承瓛
簡体字 殷承瓛
拼音 Yīn Chénghuán
ラテン字 Yin Ch'eng-huan
和名表記: いん しょうけん
発音転記: イン チョンフアン
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殷 承瓛(いん しょうけん)は清末民初の軍人・政治家。中国同盟会に属した革命派の人物で、後に雲南派の軍人となり、護国戦争(第三革命)では護国軍に参加した。叔桓

事績

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革命派としての活動

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廩生(食禄を支給された生員)であった殷承瓛は、1903年光緒29年)に日本へ留学する。東京振武学校を経て、陸軍士官学校第5期工兵科で学んだ[1]。また、この際に中国同盟会に加入している。帰国後、雲南の新建陸軍第19鎮に加入し、正参謀官、正参議などを歴任した。雲南陸軍講武堂の創設にも関与している[2][3][4]

1911年宣統3年)の辛亥革命では、殷承瓛は革命派における主導者の1人として、蔡鍔唐継尭らとともに謀議に参加した。そして10月30日に、革命派は昆明で蜂起を決行した(昆明重九起義)。蜂起成功後に、蔡を都督とする大漢雲南軍都督府が樹立されると、殷は同政府の参謀部総長に任命された[5][3][2]

チベット遠征と田地調査

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1912年民国元年)6月、殷承瓛は西征軍総司令官(援蔵司令官)としてチベットに出征し、各地でチベット軍を破った。この際に、四川都督尹昌衡も同じくチベットに出征し、作戦上の齟齬から、雲南軍と四川軍の間で紛争が発生しかけている。しかし同年12月、殷は大過なく軍を昆明に帰還させた[6]。同月29日、北京政府から陸軍少将兼陸軍中将銜を授与され[7]、翌1913年(民国2年)4月12日には陸軍中将に昇進している[8]

1913年(民国2年)10月、蔡鍔が雲南都督を離任して北京に赴くと、殷承瓛もこれに随従して、北京総統府顧問官に任ぜられた。1915年(民国4年)1月、全国経界局清丈処処長(全国経界局督弁は蔡鍔)となる。殷は東三省や朝鮮に赴き、中国における土地の現状を学んだ。その上で、経界局秘書長周鍾嶽とともに、田地調査のための法規制定や研究に尽力している。その成果として、『経界法規草案』、『中国歴代経界紀要』、『各国経界紀要』の3つの著作をまとめた[9]

護国戦争と晩年

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同年、袁世凱が皇帝即位を画策すると、殷承瓛は蔡鍔とともに北京から逃亡し、雲南へ戻る。12月、袁が皇帝に即位すると、蔡は唐継尭らと協力して、袁討伐のための護国戦争(第三革命)を昆明で発動した。殷は蔡が率いる護国第1軍参議に任命され、四川へ出兵した[10]

護国戦争勝利後の1916年(民国5年)8月13日、殷承瓛は劉鋭恒の後任として川辺鎮守使に任命された[11]。しかし翌1917年(民国6年)、同じ雲南派の軍人である羅佩金が四川で敗北し、雲南へ撤退してしまう。そのため殷も地位を保つことができず、やはり雲南へ引き上げた[3]以後、殷は軍事や政治に関与しようとせず、引退した[12][13]

殷承瓛の最期については、説が様々に分かれている。『陸良県志』は、引退後に上海へ赴いてチベット密教に傾倒し、1945年(民国34年)に上海で死去としている。しかし『雲南省志 人物志』は、同年に昆明で死去としており[14]、『中国国民党百年人物全書』 は1946年(民国35年)中に死去して同年9月10日に国民政府から追悼・顕彰を受けたとし、さらに『民国人物大辞典 増訂版』は1946年(民国35年)12月1日、昆明で死去としている。

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  1. ^ 雲南省陸良県志編纂委員会編(1991)、894頁は、1904年(光緒30年)に留学し、陸軍士官学校第6期卒業としている。
  2. ^ a b 劉国銘主編(2005)、1987頁
  3. ^ a b c 徐主編(2007)、1250頁。
  4. ^ 雲南省陸良県志編纂委員会編(1991)、894-895頁
  5. ^ 雲南省陸良県志編纂委員会編(1991)、895頁
  6. ^ 雲南省陸良県志編纂委員会編(1991)、895-896頁
  7. ^ 『政府公報』第239号、1913年(民国2年)1月5日。
  8. ^ 『政府公報』第335号、1913年(民国2年)4月13日。
  9. ^ 雲南省陸良県志編纂委員会編(1991)、896頁
  10. ^ 徐主編(2007)、1250頁による。劉国銘主編(2005)、1987頁は、「護国軍総参謀長」に任命されたとしている。雲南省陸良県志編纂委員会編(1991)、897頁は、殷は唐継尭率いる護国第3軍参議処処長に任命され、貴州方面からの四川進攻に貢献したとしている。
  11. ^ 『政府公報』第220号、1916年(民国5年)8月14日。
  12. ^ 雲南省陸良県志編纂委員会編(1991)、897頁
  13. ^ 『国民政府公報』第2076号によると、1936年(民国25年)6月16日、同姓同名の人物が陸軍少将に任命されている。しかし本記事の殷承瓛と同一人物かどうかは確定できない。
  14. ^ このほか、雲南辞典編輯委員会編(1993)、663頁も1945年死去をとる。

参考文献

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  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0 
  • 雲南省地方志編纂委員会ほか『雲南省志 人物志』雲南人民出版社、2002年。ISBN 7222035761 
  • 雲南省陸良県志編纂委員会編『陸良県志』上海科学普及出版社、1991年。ISBN 7-5427-0425-7 
  • 雲南辞典編輯委員会編『雲南辞典』雲南人民出版社、1993年。ISBN 7-222-01264-8 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
劉鋭恒
川辺鎮守使
1916年8月 - 1917年4月?
次代
熊克武