毅宗 (西夏)
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毅宗 李諒祚 | |
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西夏 | |
第2代皇帝 | |
王朝 | 西夏 |
在位期間 | 1048年 - 1067年 |
姓・諱 |
李諒祚 嵬名寧令両岔 |
諡号 | 昭英皇帝 |
廟号 | 毅宗 |
生年 |
天授礼法延祚10年2月6日 (1047年3月5日) |
没年 | 拱化5年12月(1068年1月) |
父 | 景宗 |
母 | 没蔵皇后 |
后妃 |
没蔵皇后 恭粛皇后 |
陵墓 | 安陵 |
年号 |
延嗣寧国 : 1049年 天祐垂聖 : 1050年-1052年 福聖承道 : 1053年-1056年 奲都 : 1057年-1062年 拱化 : 1063年-1067年 |
毅宗(きそう)は、西夏の第2代皇帝。諱は諒祚。景宗李元昊の六男。
生涯
[編集]天授礼法延祚11年(1048年)、父の景宗が兄の李寧令哥に殺害され、李寧令哥も父殺しの罪で処刑されたため1歳で即位した。そのため母の没蔵太后とその実家の一族によって専横される。即位直後に景宗の喪中を狙って遼軍が来寇。第二次賀蘭山の戦いで西夏軍は大敗し、数多くの被害を蒙った。福聖承道4年(1056年)に母の没蔵太后が殺害され、太后の兄の没蔵訛龐が政務を執る。その5年後、没蔵訛龐親子と没蔵訛龐の娘の没蔵皇后の殺害に成功した。これにより、梁氏を皇后にしてようやく親政が始まった。大臣や官僚の数を多くして政治体系を中央集権制に近づけ、皇帝軍の戦力を増強。その結果、政治は刷新されて国力は増強したが、突然病死した。享年21。
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