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比屋根吉信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
比屋根 吉信
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 日本の旗 日本兵庫県尼崎市
生年月日 (1951-09-19) 1951年9月19日
没年月日 (2022-01-04) 2022年1月4日(70歳没)
日本の旗 日本熊本県
選手情報
ポジション 投手内野手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴

比屋根 吉信(ひやね よしのぶ、1951年9月19日 - 2022年1月4日)は、アマチュア野球の指導者。投球・送球練習器「フルセンス」の開発者[1]

兵庫県尼崎市出身。高校野球では1980年代前半に沖縄興南高校を甲子園常連校に育てた。2009年11月より2012年11月まで3年間京都大学硬式野球部監督を務めた[2] [3]

経歴

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西宮市立大社中学校卒業後、1967年報徳学園高へ入学。

高校卒業後、阪神大学野球連盟に加盟する大阪体育大学へ進学。大学時代は、ベストナイン2回、最優秀投手2回を受賞している。さらに、1974年関西大学野球連合から特別表彰を受けた。大学生の時に、兵庫県立西宮北高校の野球部を指導したときに、寶馨を教えた。そのことが、後に京都大学硬式野球部(当時、寶が部長)の監督に招かれることとなる。

大学卒業後は、社会人野球西濃運輸に入団。 第1回社会人野球日本選手権大会出場している。1975年に退団。

1976年から沖縄県の興南高で監督生活をスタートさせ、仲田幸司デニー友利など多くのプロ野球選手を輩出。

2010年から2012年の3年間、京都大学硬式野球部の監督を務め、のちに京大初のプロ野球選手となる田中英祐を指導。田中は大学生活を振り返り、「比屋根さんに1年の時から使ってもらったことが一番大きかった」と語っている[4]。2012年前期は京大非常勤講師(スポーツ実習)も務め、一般学生への指導も行った。

近年は、九州に拠点を置き野球用品の開発を行っていたが、病床に臥していた。

2022年1月4日、病気療養中の熊本県内の自宅で死去[5]。70歳没。 令和4年(2022年)6月11日に沖縄・那覇でお別れ会が開かれた[6]

監督歴

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  • 1976年1986年:沖縄・興南高等学校 野球部監督(保健体育教諭、広報室長)
    • 沖縄県大会 優勝(10回)、準優勝(4回)、ベスト4(多数)
    • 九州大会出場 7回(優勝 1回、準優勝 2回)
    • 国民体育大会出場 1回
    • 甲子園出場 6回(選抜2回、選手権4回) 1980年の選手権大会ではベスト8。
    • 1987年 沖縄県高校野球連盟特別表彰 受賞
  • 1990年1992年:社会人野球 神戸・阿部企業 監督
  • 1997年2005年:熊本・有明高等学校 野球部監督(保健体育教諭)
    • 熊本県大会 優勝(1回)、ベスト4(5回)
  • 2010年2012年京都大学硬式野球部 監督

NPB輩出選手

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興南高校

阿部企業

京都大学

脚注

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  1. ^ http://www.baseball-king89.com/full-sense%E7%B4%B9%E4%BB%8B
  2. ^ 岡邦行:京都大学硬式野球部の逆襲「比屋根野球」挑戦3年目の通信簿「野球の頭脳」に目覚めるとき、『野球太郎』(廣済堂ベストムック)創刊号 No. 001,pp. 224-235.
  3. ^ 谷上史朗:静かに広がる波紋--比屋根吉信 元京都大学監督”勝てないチーム”を”負けないチーム”に--, 勝利の伝道者--勝つために 指揮官たちのあくなき葛藤--, 矢崎良一(監修), 日刊スポーツ・高校野球ノンフィクション, Vol. 8, pp. 107-140.
  4. ^ 京大初のプロ野球選手、田中英祐「4年間の軌跡」
  5. ^ 興南高、京大で監督の比屋根吉信氏が死去、70歳 教え子にデニー友利ら”. 日刊スポーツ (2022年1月5日). 2022年1月5日閲覧。
  6. ^ 興南、京大などで監督務めた比屋根吉信氏のお別れの会「多くの人材育てられた野球人」高野連会長”. 日刊スポーツ (2022年6月11日). 2022年6月11日閲覧。