毛利匡満
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 延享5年3月12日(1748年4月9日) |
死没 | 明和6年8月13日(1769年9月12日) |
改名 | 文之助、匡満 |
戒名 | 浄雲院殿宝山有道大居士 |
墓所 |
山口県下関市長府の功山寺 東京都港区高輪の泉岳寺 |
官位 | 従五位下能登守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家重、家治 |
藩 | 長門長府藩主 |
氏族 | 毛利氏 |
父母 | 毛利匡敬(重就)、利尾 |
兄弟 |
好、佐代、匡満、友、勢代、治親、澄、 匡芳、親著、列、多鶴、長、内藤信旭正室ら |
妻 | 溝口直温次女民姫 |
子 | 匡芳(養嗣子) |
毛利 匡満(もうり まさみつ)は、江戸時代中期の大名。長門国長府藩9代藩主。
経歴
[編集]8代藩主・毛利匡敬(重就)の長男として長府にて誕生。幼名は文之助。
宝暦元年(1751年)5月3日、父が本家長州藩の藩主となったために4歳で長府藩主となった。宝暦11年(1761年)12月に叙任する。「明和御条目」などによる藩法制定などを始めとする藩政改革に尽力したが、明和6年(1769年)8月13日に22歳で若死にした。嗣子はなく、跡を弟の匡芳が継いだ。法号は浄雲院殿宝山有道大居士。墓所は下関市長府の功山寺、東京都港区高輪の泉岳寺。