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毛利光広

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
毛利光広
時代 江戸時代前期
生誕 元和2年8月1日1616年9月11日
死没 承応2年7月2日1653年8月24日
改名 又四郎(幼名)、光広
戒名 長光院不二宗安
墓所 山口県下関市長府笑山寺
東京都港区泉岳寺
官位 従四位上和泉守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家光家綱
長門長府藩
氏族 毛利氏
父母 毛利秀元、織田氏
兄弟 松菊子、宮子、宮松丸、光広、今子、
長菊子、千菊子、万菊子、元知、妻子、
竹千代子
本多忠義娘清殊院
綱元熊姫稲葉正倚正室
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毛利 光広(もうり みつひろ)は、長門国長府藩2代藩主。初代藩主・毛利秀元の次男。

略歴

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長兄の宮松丸が早世したために世子となり、慶安3年(1650年)、父の死去により跡を継いだが、わずか3年後の承応2年(1653年)7月2日に江戸にて死去した。享年38。跡を長男の綱元が継いだ。墓所は山口県下関市長府笑山寺(詣り墓)、並びに東京都港区泉岳寺[注釈 1]

系譜

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脚注

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  1. ^ 先代の秀元など五大名が幕命により高輪に再建した縁による。元禄赤穂事件はまだ発生していない。

関連項目

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