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毛利元知

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
毛利元知
毛利元知像(下関市立長府博物館蔵)
時代 江戸時代前期
生誕 寛永8年6月22日1631年7月21日
死没 天和3年5月14日1683年7月8日
戒名 高林院涼岸常清
墓所 泉岳寺東京都港区高輪
官位 従五位下刑部少輔
長門清末藩初代藩主
氏族 大江姓毛利氏
父母 父:毛利秀元、母:本光院(長沼氏)
兄弟 松菊子毛利就隆正室)、宮子、宮松丸光広、今子、長菊子永井尚征正室)、千菊子山崎豊治正室)、万菊子稲葉正則正室)、元知、妻子、竹千代子土井利長正室)
正室:蓮華院(七沢清宗の娘)[1]
側室:船越氏小笠原氏
元武元平(匡広)稲葉正方
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毛利 元知(もうり もととも)は、長門国清末藩初代藩主。長府藩初代藩主・毛利秀元の三男。母は本光院長沼氏)。

生涯

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寛永8年(1631年6月22日長府藩初代藩主・毛利秀元の三男として摂津国大坂で生まれる。

承応2年(1653年)に長府藩2代藩主であった兄・光広が死去して甥の綱元が跡を継ぐと、亡父・秀元の遺言もあって元知は綱元から1万石を分与され、清末藩を立藩した。この清末藩は長州藩の三支藩の一つとして厚遇された。

延宝5年(1677年7月25日、嫡男の元武が20歳で死去したため、次男の元平が後継となる。

天和3年(1683年5月14日江戸で死去。享年53。跡を次男・元平(後の長府藩6代藩主・毛利匡広)が継いだ。法号は高林院涼岸常清。墓所は東京都港区高輪泉岳寺

系譜

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脚注

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  1. ^ 徳川家光の側室である宝樹院の異父妹。増山正利の養女。青木利長の娘との説もある。