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毛利広豊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
毛利広豊
毛利広豊肖像
時代 江戸時代中期
生誕 宝永6年4月4日1709年5月13日
死没 安永2年10月29日1773年12月12日
改名 永井三次郎(幼名)→毛利広房(初名)→広豊
別名 :茅山
戒名 天了院殿磨廓翁湛然大居士
墓所 大成寺山口県周南市舞車)
官位 従五位下但馬守山城守
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗家重
周防徳山藩
氏族 大江姓毛利氏
父母 父:毛利元次、母:良寿院(津礼子)
養父:毛利元堯(異母兄)
兄弟 主計、逸子、百子(内田正偏正室)、春子、
元堯、喜久子(稲葉正恒正室)、
幸子(毛利元連正室)、広豊
正室:雲鏡院松平忠喬の娘)
広矩広寛、三助、松野助紑小笠原正良就盈森豊嘉孝暁吉川経倫就馴豊和、吉之助、豊正土方勝幼大島義順、松之助、吉助、亀五郎、某、粟屋清平笹川芳和、熊吉、又三郎 その他女子23人
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毛利 広豊 (もうり ひろとよ)は、江戸時代中期の大名周防国徳山藩5代藩主。第3代藩主・毛利元次の三男。兄は第4代藩主・毛利元堯毛利輝元男系の曾孫にあたる。

生涯

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宝永6年(1709年4月4日徳山藩第3代藩主・毛利元次の三男として、江戸三田の徳山藩邸で生まれる。

享保元年(1716年)4月、徳山藩改易と同時に麻布萩藩邸に移り、次いで国に帰り、兄・元堯と共にへ赴き、徳山藩再興までの3年間を過ごす。

享保6年(1721年2月11日に兄で第4代藩主の元堯が早世したため、その養子として跡を継ぎ、を「広房」と改める。しかし、実際にはまだ元服の年齢に達してはいなかったため、幕府には宝永2年(1705年)生まれの17歳と公年を届け出る。同年12月18日従五位下に叙せられ、翌日、但馬守に任じられる。

嗣封の初めはまだ幼少だったため、長府藩主の毛利匡広がその後見役として、しばらく政務を預かることとなる。享保7年(1722年11月16日、「広豊」と改名。享保8年(1723年)、徳山藩再興の時に萩藩から派遣された井原元歳らが萩へ引き揚げる。

享保9年(1724年12月12日摂津国尼崎藩主・松平忠喬の娘である雲鏡院との縁組を幕府に認められ、享保11年(1726年8月25日に婚姻したが、雲鏡院は享保15年(1730年12月3日に死去[1]

享保18年(1733年8月19日陸奥国相馬中村藩主・相馬尊胤の妹との縁組を幕府に認められたが、婚姻前の元文4年(1739年4月23日に死去している[1]

延享4年(1747年9月5日、但馬守を改め、山城守に任じられる。

宝暦8年(1758年4月8日、次男の広寛に家督を譲って隠居する。明和5年(1768年12月7日、「茅山」と号す。

安永2年(1773年10月29日下松の別邸で死去し、徳山の大成寺に葬られる。享年65だが、公には享年69である。

系譜

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非常に多くの子供をもうけている[2]

脚注

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注釈

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出典

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参考文献

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  • 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 徳山市史編纂委員会『徳山市史 上』(1971年