毛利就泰
表示
時代 | 江戸時代前期 |
---|---|
生誕 | 寛永4年(1627年) |
死没 | 元禄2年1月17日(1689年2月6日) |
改名 | 繁沢権平→毛利就泰 |
別名 | 毛利就嘉(別名)権平、伊織、内蔵助、宇右衛門(通称) |
墓所 | 大寧寺 |
主君 | 毛利秀就→綱広→吉就 |
藩 | 長州藩 |
氏族 | 阿川毛利家 |
父母 | 父:毛利就方 |
妻 | 正室:毛利元法の娘 |
子 | 就芝 |
毛利 就泰(もうり なりやす)は、長州藩一門家老である阿川毛利家の4代当主。
生涯
[編集]寛永4年(1627年)3代当主・毛利就方の子として生まれ、初めは「繁沢」の苗字を名乗る。寛永20年(1643年)3月3日、毛利秀就から「伊織」の官途名と「就」の偏諱を与えられ、就泰(就嘉とも)と名乗った。
延宝4年(1676年)8月21日、就方の累年の隠居願いが藩主・毛利綱広に聞き届けられて隠居した。就方の隠居によって、嫡男である就泰が家督を相続して阿川領主、長州藩一門家老となり、同時に国元加判役(国元家老)を命じられた。以後、藩主の綱広と吉就の2代に仕え、天和元年(1681年)に当役となった。貞享4年(1687年)には干潟250町歩を拝領し、開作(干拓)により石高を増やした。
元禄2年(1689年)1月17日に死去。享年63。嫡男の就芝が家督を相続した。