毛利元包 (吉敷毛利家)
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毛利 元包(もうり もとかね、慶長12年11月(1607年) - 延宝4年4月7日(1676年5月19日))は、吉敷毛利家の3代当主。吉敷入りした最初の当主。毛利元鎮の嫡男。母は穂井田元清の娘。正室は堅田元慶の娘。継室は福原元俊の娘。娘は毛利就直の正室。通称は喜太郎、別名に元房、官途は兵部、佐渡、石見。
生涯
[編集]慶長12年(1607年)、父元包の知行地殿居村で生まれる。1613年(慶長18年)、父とともに阿川八幡宮を修築した。寛永2年(1625年)、父の隠居により家督相続する。同年、家中の知行地再編により、当時藩執政を務めていた母の兄毛利秀元の意向で、藩主が参勤交代で通行する街道・萩往還の後背の要地吉敷郡吉敷に移り、以降は吉敷毛利家と通称され、代々藩の一門家老を務めた。また、一族の菩提寺黄龍山玄済寺を吉敷に移している。寛文11年(1671年)、病のため隠居して家督を婿養子の就直に譲った。延宝4年(1676年)に吉敷で死去、享年70。