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毛利吉広

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
毛利 吉広
時代 江戸時代中期
生誕 延宝元年1月12日[1]1673年2月28日
死没 宝永4年10月13日1707年11月6日[1]
改名 千之助[1](幼名[2])→就勝[1]→吉広
別名 主膳[1][2]
諡号 青雲公[1]
戒名 青雲院殿前二州太守四品拾遺補闕大官令徹山道照大居士[1]
墓所 山口県萩市椿の大照院[1][2]
官位 従五位下[1]従四位下大膳大夫侍従[1]
幕府 江戸幕府
長州藩藩主
氏族 毛利宗家右田毛利家→毛利宗家
父母 父:毛利綱広[1][2]
母:房子(昌寿院、梨木永祐の娘[2][1]
養父:毛利就信
養母:長寿院(亀子、酒井忠隆の娘)
兄弟 吉就[3][2]吉広元重[4]
正室:小石姫(養心院、鷹司輔信の娘)[1]
養嗣子:吉元
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毛利 吉広(もうり よしひろ)は、江戸時代前期から中期の大名毛利氏18代当主。長州藩4代藩主。2代藩主・毛利綱広の次男[1]

概要

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延宝元年1月12日[1]1673年2月28日)に江戸麻布の藩邸で生まれる[2]

貞享元年(1684年)に一門八家の一つ右田毛利家当主・毛利就信の養嗣子となり、異母兄で長州藩主を継いでいた毛利吉就から偏諱を授与されて毛利就勝もうり なりかつと名乗った。

元禄7年(1694年)に吉就が嗣子なくして早世するとその養嗣子として跡を継ぐ[1][2]。8月に兄同様、5代将軍徳川綱吉より偏諱を授与され、亡き父の1字を取って[要出典]吉広に改名した[2]

元禄9年(1696年)にはじめて領国に入国する[2]。藩財政が窮乏化する中、三田尻海岸の干拓[2]橋本川の治水工事、城下町整備や検地など積極的な政策を展開するが、宝永4年(1707年10月13日[1]に江戸桜田の藩邸で[2]、35歳で死去する[1][2]。改革は中途半端に終わった。

嗣子はなく、また弟の元重も前年に死去し、その子で甥に当たる元直も幼少であったため、長府藩から元倚もうり もとよりが養子に迎えられ、毛利吉元として跡を継いだ。

偏諱を与えた人物

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 時山弥八編 1916, p. 95.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 吉田 1976, p. 235.
  3. ^ 時山弥八編 1916, p. 91.
  4. ^ 時山弥八編 1916, p. 92.

参考文献

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  • オープンアクセス時山弥八編『国立国会図書館デジタルコレクション 稿本もりのしげり』1916年。 NCID BN04718592https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/969141/45 国立国会図書館デジタルコレクション 
  • 吉田祥朔『近世防長人名辞典』(増補)マツノ書店、1976年6月1日。 NCID BN02934961