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鷹司輔信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
鷹司輔信
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 不明
死没 寛保元年10月3日1741年11月10日
別名 号:有隣軒
主君 霊元天皇東山天皇中御門天皇桜町天皇
氏族 鷹司家
父母 父:鷹司房輔、母:家女房
兄弟 兼熙西園寺実輔輔信、房演、信覚、日顕、隆尊、一条兼香
室:花山院定誠
室:久我通誠
八重姫、男子、小石君、日慈、八百君
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鷹司 輔信(たかつかさ すけのぶ)は、江戸時代前期から中期にかけての公家茶人。号は有隣軒。

来歴

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関白鷹司房輔の三男[1]として生まれる。母は家女房。壮年から若干の眼疾を患っていたと言われており、そのためか生涯無位無官ですごした。茶を慈胤法親王に学んだ。自筆の和歌懐紙をはじめ、自作の茶碗や茶杓が複数現存するほか、釜などの好みの茶道具なども残っている。晩年は剃髪し洛東頂妙寺内の蓮乗院に住した。[2]

寛保元年(1741年)10月3日に死去。享年は74[3]など諸説ある。特にほとんどの史料で享年62歳と記されているが、逆算すると生年は延宝8年(1680年)。だが長女八重姫の生年が元禄2年(1689年)、もしくは元禄3年(1690年)なので享年62歳という記述は誤記の可能性が高い。

茶人として知られ、土肥自在軒らとも交流があった[4]

系譜

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脚注

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  1. ^ 「光台一覧巻三」には兼煕の兄と記述されている。
  2. ^ 山口吉郎兵衛『茶人 鷹司輔信』リーチ、昭和38年版、12-13頁より引用
  3. ^ 『通兄公記』寛保元年十月九日条
  4. ^ 『朝日日本歴史人物事典』