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毛利吉元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
毛利吉元
毛利吉元像(毛利報公会蔵)
時代 江戸時代中期
生誕 延宝5年8月24日[1]1677年9月20日
死没 享保16年9月13日1731年10月13日[1]
改名 又四郎[1](幼名[2])、元倚(初名)[1]、吉元
別名 右京大夫(通称
諡号 泰桓公[3]
戒名 泰桓院殿前二州太守四品拾遺補闕仰岳浄高大居士[3]、泰桓院仰岳浄高[2]
墓所 山口県萩市東光寺[3]
官位 従五位下[3]右京大夫[3]従四位下[3]民部大輔侍従[3]長門守[3]
幕府 江戸幕府
主君 徳川綱吉家宣家継吉宗
長府藩世嗣、長州藩
氏族 毛利氏
父母 父:毛利綱元[1][2]、母:池田光政[1][2]・祥雲院
養父:毛利吉広[1]
兄弟 吉元本多忠次匡以元矩、真寿院
正室:池田綱政娘・法林院[3]
側室:伴氏(桂月院)[4]、森氏(永昌院)[4]
元朝(宗元)[3]元陳[5]宗広(維広)[6]、皆姫[5]、寧[6]
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毛利 吉元(もうり よしもと)は、江戸時代中期の大名毛利氏19代当主。長州藩5代藩主。長府藩主・毛利綱元の長男。母は池田光政の娘・祥雲院[1][2]。養母は鷹司輔信の娘・小石姫(養心院)。正室は池田綱政の娘・法林院[3]

経歴

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延宝5年(1677年8月24日江戸で生まれる[1]元禄4年(1691年12月元服して元倚もとより[1][注釈 1]と名乗る。宝永4年(1707年)に本家藩主・毛利吉広が若死にすると、その養嗣子として後を継ぐ[2]。吉広同様、5代将軍徳川綱吉より偏諱を賜い、吉元に改名。吉元は毛利秀元系初の長州藩主であるが、この家督相続の際に徳山藩主で、血統上は毛利輝元系の毛利元次が無視されたことで禍根を残すことにより、万役山事件が起こった。

藩財政再建のため、5か年の倹約や経費節減、参勤交代での人数の減少に努めた。また、文武を奨励して藩校明倫館を創設し[2]、さらに毛利家の家系をまとめた閥閲録204冊の編纂を行った。

享保16年(1731年9月13日、江戸で死去[3][2]。享年55[3][2]。墓所は山口県萩市椿東の東光寺[3][2]大正5年(1916年11月従三位を追贈された[2]

初めは三男の元陳もとのぶを、次に実家の長府藩主を継いでいた長男の元朝(宗元)を、次の長州藩主に定めていたが、いずれも吉元に先立って早世しており、新たに嫡男となっていた五男の維広(宗広)が跡を継いだ。

系譜

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偏諱を与えた人物

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吉元時代
「元」は毛利氏の通字として最もよく用いられている字であり、一部の分家でも代々用いられている。そちらについては特別に吉元から賜ってはいないものとみなし、明らかにこの代に賜っている人物のみを掲載する。

登場する作品

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脚注

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  1. ^ 元猗とも。
  1. ^ a b c d e f g h i j 時山弥八編 1916, p. 96.
  2. ^ a b c d e f g h i j k 吉田 1976, p. 236.
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n 時山弥八編 1916, p. 97.
  4. ^ a b 時山弥八編 1916, p. 100.
  5. ^ a b 時山弥八編 1916, p. 98.
  6. ^ a b 時山弥八編 1916, p. 99.

参考文献

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  • オープンアクセス時山弥八編『国立国会図書館デジタルコレクション 稿本もりのしげり』1916年。 NCID BN04718592https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/969141/45 国立国会図書館デジタルコレクション 
  • 吉田祥朔『近世防長人名辞典』(増補)マツノ書店、1976年6月1日。 NCID BN02934961