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毛利吉就

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
毛利吉就
毛利家墓所内の吉就(右)と夫人亀姫の墓
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛文8年1月21日[1]1668年3月3日
死没 元禄7年2月7日1694年3月2日[2]
改名 元千代丸[1](幼名[3])、吉就
諡号 寿徳公[2]
戒名 寿徳院殿前二州太守四品拾遺補闕大光元栄大居士[2]、寿徳院大光元栄[3]
墓所 山口県萩市東光寺[2][3]
官位 従五位下[2]従四位下侍従長門守[2]
幕府 江戸幕府
主君 徳川綱吉
長州藩
氏族 毛利氏
父母 毛利綱広[1][3]松平忠昌娘千姫[1][3]
兄弟 吉就吉広[4]元重[5]、良、品、勘、幸、類ら
酒井忠隆娘亀子[2]
吉広(養嗣子)
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毛利 吉就(もうり よしなり)は、江戸時代前期の大名毛利氏17代当主。長州藩3代藩主。

略歴

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2代藩主・毛利綱広の長男[1]。母は松平忠昌の娘・高寿院(千姫)[1][3]。正室は若狭小浜藩主・酒井忠隆の娘・長寿院(亀子)[2]官位従四位下長門[2]

寛文8年(1668年1月21日江戸麻布の藩邸で生まれる[1][3]天和2年(1682年2月27日、父の隠居により跡を継いだ[1][3]4月に5代将軍徳川綱吉から偏諱を賜り[3]祖父・毛利秀就からも1字を取って[要出典]吉就と名乗り、従四位下に叙位、侍従に叙任され、長門守と称する[3]

藩主としては、貞享元年(1684年)にはじめて領国に入国する[3]。貞享3年(1686年)に貞享検地と呼ばれる検地を行なって、領民への徴税を是正することに務める一方[3]、新堀川の治水工事[3]城下町の整備に取り組み、元禄4年(1691年)には護国山東光寺を建立する[3]など積極的な政治を展開するが、同時に藩財政の悪化も招くことになった。これに反発する家臣団との対立に苦労する中、元禄7年(1694年2月7日に江戸桜田の藩邸で急死してしまった[2][3]。享年27[2][3]

吉就には嗣子がなく、跡を吉就の異母弟で養嗣子の就勝(吉広)が継ぐこととなった。墓所は萩市椿東の東光寺[2][3]

系譜

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偏諱を与えた人物

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h 時山弥八編 1916, p. 94.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 時山弥八編 1916, p. 95.
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 吉田 1976, p. 235.
  4. ^ 時山弥八編 1916, p. 91.
  5. ^ 時山弥八編 1916, p. 92.

参考文献

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  • オープンアクセス時山弥八編『国立国会図書館デジタルコレクション 稿本もりのしげり』1916年。 NCID BN04718592https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/969141/45 国立国会図書館デジタルコレクション 
  • 吉田祥朔『近世防長人名辞典』(増補)マツノ書店、1976年6月1日。 NCID BN02934961