毛利元宣
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶長3年(1598年) |
死没 | 寛文7年7月27日(1667年9月15日) |
改名 | 毛利亀寿丸(幼名)→毛利元宣 |
別名 | 通称:七蔵 |
戒名 | 広覚院心甫宗得 |
墓所 | 洞玄寺(山口県山陽小野田市郡西下津) |
官位 | 兵庫頭、遠江守、紀伊守、伯耆守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 毛利秀就→綱広 |
藩 | 長州藩家老 |
氏族 | 大江姓毛利氏(厚狭毛利家) |
父母 | 父:毛利元康(末次元康)、母:心性院(側室) |
妻 |
正室:純正院(毛利元政(天野元政)の娘) 側室:緑樹院 側室:清光院(土佐藩士・麻田某の娘) 側室:清涼院(神代某の娘) 側室:智光院(雑賀元相の次女) |
子 |
虎子、石子、松子、長鶴丸、宮亀丸、 菊子(宍戸就方正室)、元勝、長子、 増子(阿曽沼秀光継室)、 熊子(児玉就征継室)、元衡、 千子(清水就治継室) |
毛利 元宣(もうり もとのぶ)は、江戸時代前期の武士。長州藩一門家老である厚狭毛利家の3代当主。
父は毛利元就の八男である毛利元康(末次元康)。母は父・元康の側室である心性院。正室は右田毛利家当主・毛利元政の娘。
生涯
[編集]慶長3年(1598年)、毛利元康(末次元康)の子として、備後国深津郡深津[注釈 1]において生まれる[1]。
慶長6年(1601年)1月13日、父・元康が大坂で死去したため、5歳で家督と長門国厚狭郡の荒滝城付近の7700石の所領を相続し、長州藩主・毛利秀就、綱広に加判役(家老)として仕えた。
慶長20年(1615年)4月14日に書かれた、毛利一門が毛利元就の遺訓に従い毛利家へ別心を抱かない旨を誓った連署起請文において「毛利兵庫頭元宣」と署名している[注釈 2]。
しかし、元和3年(1617年)に行われた馬揃えにおける不首尾から知行の半ばを没収されたため、元和8年(1622年)の分限帳には元宣の知行が3000石と記されている。
寛永2年(1625年)、藩主・秀就より長門国厚狭に知行6000石を与えられ、代々領したため、元宣の家系は「厚狭毛利家」と通称されるようになる。また、萩城大手門前の四本松に屋敷があったことから「四本松毛利家」とも呼ばれた。
慶安4年(1651年)4月20日に将軍・徳川家光が死去すると、藩主・綱広の命で周防国山口の氷上山興隆寺にて法要を行う。また、万治元年(1659年)6月28日に大老・井伊直孝が死去すると、藩主・綱広の名代として彦根を訪れ焼香した。
寛文5年(1665年)、嫡男の元勝に家督を譲り隠居し、寛文7年(1667年)7月27日に死去[1]。享年70。 長門国厚狭郡の宝珠山洞玄寺に葬られた[1]。
系譜
[編集]- 父:毛利元康(1560-1601)
- 母:心性院(?-1660) - 毛利元康の側室。京都の蒲生某の娘[1]。万治3年4月12日(1660年5月20日)に死去[1]。長門国厚狭郡の宝珠山洞玄寺に葬られる[1]。法名は心性院虚舟宗白[1]。
- 正室:純正院(?-1661) - 右田毛利家当主・毛利元政(天野元政)の長女[1]。万治4年1月19日(1661年2月18日)に死去[1]。長門国萩の天樹院下屋敷墓地に葬られる[1]。法号は純正院殿妙徳日円[1]。
- 側室:緑樹院(?-1622) - 京都生まれで、病により帰洛し、元和8年8月19日(1622年9月24日)に死去[1]。長門国厚狭郡の妙慶寺(後の妙慶院貞源寺)に葬られる[3]。法名は緑樹院殿雲它妙慶大姉[3]。
- 側室:清光院(?-1656) - 土佐藩士・麻田某の娘[3]。明暦2年8月29日(1656年10月16日)に死去[3]。長門国厚狭郡の清涼寺(後の妙徳寺、厚狭毛利家菩提所)に葬られる[3]。法号は清光院殿妙察日崇[3]。
- 側室:清涼院(?-1646) - 神代某の娘[3]。正保3年6月28日(1646年8月9日)に死去[3]。長門国厚狭郡の清涼寺(後の妙徳寺、厚狭毛利家菩提所)に葬られる[3]。法号は清涼院妙受日了[3]。
- 三男:毛利元勝(1646-1698) - 厚狭毛利家4代当主。
- 側室:智光院(?-1656) - 長州藩士・雑賀元相の次女[3]。明暦2年6月19日(1656年8月9日)に死去[3]。長門国厚狭郡の宝珠山洞玄寺に葬られる[3]。法名は智光院殿観窓妙真[3]。
- 母不明の子
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 現在の広島県福山市東深津津町・西深津町。
- ^ この起請文での署名は座配の様に記され、長門守秀就(毛利秀就)と幻庵宗瑞(毛利輝元)が向かい合い、秀就の左側に宍戸備前守元続、繁澤左近入道立節(繁沢元氏)、毛利甲斐守秀元、毛利兵庫頭元宣、吉川又次郎広正が並び、右側に毛利山城守元倶、阿曽沼左兵衛頭元随、吉川蔵人広家、繁澤志摩守元景、毛利伊賀守元鎮が並んでいる[2]。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 「山陽町史」
- 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639。OCLC 703821998。全国書誌番号:73004060。国立国会図書館デジタルコレクション