毛利弘元
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時代 | 室町時代 - 戦国時代 |
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生誕 | 応仁2年(1468年) |
死没 | 永正3年1月21日(1506年2月13日) |
改名 | 千代寿丸(幼名)[1]→弘元 |
別名 | 通称:少輔太郎[1] |
戒名 | 悦叟常喜大禅定門[1] |
墓所 | 悦叟院(広島県安芸高田市) |
官位 | 受領名:治部少輔[1]、備中守[1] |
主君 | 大内政弘→義興 |
氏族 | 大江姓毛利氏 |
父母 | 父:毛利豊元[1]、母:不明 |
兄弟 | 弘元、兼重元鎮 |
妻 |
正室:福原広俊の娘(法名:祥室妙吉)[1] 継室:杉大方 側室:佐々木氏の娘、難波元房の娘、有田氏の娘 |
子 |
興元[2]、元就[2]、相合元綱[3]、 北就勝[4]、見付元氏、宮姫(武田氏室[2])、八幡新造(渋川義正室)、相合大方(井上元光室[3])、松姫(吉川元経室[4])、竹姫(井原元師室[4]) |
毛利 弘元(もうり ひろもと)は、室町時代から戦国時代にかけての武将。安芸国の国人領主・毛利氏当主。吉田郡山城主。父は毛利豊元。子に毛利興元(嫡男)、毛利元就(次男)、相合元綱(三男)、北就勝(四男)がいる。
生涯
[編集]応仁2年(1468年)、安芸国の国人である毛利氏の当主・毛利豊元の長男として生まれる[5]。毛利氏は周防国・長門国の守護大名・大内氏の勢力下である安芸国人領主の一人であった。
文明10年(1478年)2月、大内政弘に願い出て加冠されて、「弘」の偏諱を与えられ「弘元」と名乗る(『毛利家文書』152・153号)[6][7]。
文明14年(1482年)3月には、政弘からその領国内の豊前国京都郡津隈荘内で20町の地を預けられており、大内氏の知行制の中に取込まれている(『毛利家文書』156号)[6]。
明応4年(1495年)に政弘が死去すると、その後を継いだ大内義興に嫡男の興元と共に従った。だが、その立場は管領・細川氏と大内氏の間で揺れ、さらに明応8年(1499年)には明応の政変で失脚した前将軍・足利義稙を保護した大内氏と、将軍・足利義澄を擁する室町幕府との間で揺れる[5]。
弘元は対立の激化した大内氏と細川氏の両者からの協力要請から逃れる為、明応9年(1500年)に嫡男の興元に家督を譲って隠居し、次男の元就らを連れて安芸国多治比の猿掛城へ移り住んだ。弘元が隠居先を猿掛城としたのは、吉田郡山城の西の拠点を確保し北方に位置する国人・石見高橋氏に備えるためとも考えられている[5]。
永正3年(1506年)1月21日、弘元は心労により、39歳で死去した[8][5]。弘元の墓所は広島県安芸高田市の悦叟院にある。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 時山弥八編『国立国会図書館デジタルコレクション 稿本もりのしげり』1916年。 NCID BN04718592 。
- 安芸高田市歴史民俗博物館『平成二十八年度企画展「毛利興元」図録』安芸高田市歴史民俗博物館、2016年11月。
- 河合正治『安芸 毛利一族』(新人物往来社、1984年)
関連作品
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