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吉川元経

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
吉川元経
時代 室町時代 - 戦国時代
生誕 長禄3年[1]1459年
死没 大永2年3月6日[1][2]1522年4月2日
別名 次郎三郎[2](通称)
戒名 雄猛院義仲全勇[1]
墓所 盤目山洞仙寺広島県山県郡北広島町
官位 伊予守[2]治部少輔[1][2]
主君 大内義興尼子経久
氏族 藤原南家工藤流吉川氏
父母 父:吉川国経[2]、母:不詳
兄弟 元経大塚経長[3]経世[3]
女(福屋隆兼室)、妙玖毛利元就正室)
正室:毛利弘元
大朝家経興経[2][3]、女(武田光和室)、
女(山県光頼室)、女(小笠原長雄室)
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吉川 元経(きっかわ もとつね)は、戦国時代武将安芸国国人吉川氏13代当主。

生涯

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長禄3年[1]1459年)、安芸国国人吉川国経の長男として生まれる。

永正8年(1511年)の船岡山合戦には父と共に参陣[1]。永正14年(1517年)、安芸武田氏当主・武田元繁が吉川領の有田城を攻撃すると、曽祖父・吉川之経の弟にあたる宮庄経友[4]を派遣し、毛利元就との共同作戦によって武田元繁や熊谷元直らを討ち取った(有田中井手の戦い)。

その後方針を転換し、山陰の雄・尼子経久の傘下に入る。元経の妻は毛利弘元の娘であり、妹は毛利元就の妻であった。そのため吉川氏が尼子氏傘下になると、毛利氏に対しても尼子氏に従属するように勧誘した[1]

家督を継いで間もない大永2年(1522年3月6日、父・国経に先立って死去[1]。子の興経が跡を継いだ。

系譜

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関連作品

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脚注

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出典

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  1. ^ a b c d e f g h 阿部 & 西村 1990, p. 281.
  2. ^ a b c d e f 今井尭ほか編 1984, p. 333.
  3. ^ a b c 光成 2016, pp. 328, 吉川氏系図.
  4. ^ 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 39.
  5. ^ 大朝町史編纂委員 編『大朝町史 上巻』1978年、358,427-429頁。doi:10.11501/9574582https://doi.org/10.11501/9574582 

参考文献

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  • 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 今井尭ほか編『日本史総覧』 3(中世 2)、児玉幸多小西四郎竹内理三監修、新人物往来社、1984年3月。ASIN B000J78OVQISBN 4404012403NCID BN00172373OCLC 11260668全国書誌番号:84023599 
  • 中国新聞社『歴史紀行 安芸吉川氏』新人物往来社、1988年6月。ISBN 4-404-01517-8 
  • 阿部猛; 西村圭子 編『戦国人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年9月。ISBN 4-404-01752-9 
  • 光成準治 編『吉川広家』戎光祥出版〈シリーズ・織豊大名の研究 第四巻〉、2016年。ISBN 978-4-86403-215-5