吉川国経
表示
時代 | 室町時代 - 戦国時代 |
---|---|
生誕 | 嘉吉3年(1443年[1]) |
死没 | 享禄4年4月18日[1](1531年5月4日) |
別名 | 次郎三郎[2]、三郎[2] |
戒名 | 正受院一株慶守[1] |
官位 | 伊豆守[2]、治部少輔[1][2] |
主君 | 室町幕府 足利将軍家 |
氏族 | 藤原南家工藤流吉川氏 |
父母 | 父:吉川経基[2]、母:佐波秀連娘 |
兄弟 |
国経、吉川夫人(尼子経久室)、 女(笠間刑部少輔室)、四郎、 女(小河内清信室)、石経守[3][注釈 1]、 女(綿貫忠澄室)、国衙光経[3]、 女(多賀某室)、女(三須清成室)、 江田経純[3]、女(波根泰次室)、 筏経法[3]、女(気比大宮司某室)、 女(鷹司兼輔継室) |
妻 |
正室:高橋直信の娘 継室:小笠原越前守の娘 |
子 |
元経[2][3]、大塚経長[3]、経世[3]、 女(福屋隆兼室)、妙玖(毛利元就正室) |
吉川 国経(きっかわ くにつね)は、戦国時代の武将。安芸国国人・吉川氏12代当主。
生涯
[編集]永正6年(1509年)、家督を継いで当主となる[1]。永正4年(1507年)に周防国の大内義興と出雲国の尼子経久が室町幕府12代将軍・足利義稙を擁して上洛した際には従軍し[1]、永正8年(1511年)の船岡山合戦にも参加した[1]。
後に尼子経久が勢力拡大を図り大内義興と戦いを始めると、永正14年(1517年)から尼子氏に味方して大内氏の動向を伝えた[1]。また、経久の命により、毛利氏取り込みのために娘・妙玖を毛利元就に嫁がせている[1]。
大永2年(1522年)に長男の吉川元経が死去すると、嫡孫・吉川興経(千法師)の補佐・後見にあたった[1]。
享禄4年(1531年)4月18日に死去。大朝新庄の洞泉寺に葬られる。
関連作品
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639。OCLC 703821998。全国書誌番号:73004060。国立国会図書館デジタルコレクション
- 阿部猛; 西村圭子 編『戦国人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年9月。ISBN 4-404-01752-9。
- 今井尭ほか編『日本史総覧』 3(中世 2)、児玉幸多・小西四郎・竹内理三監修、新人物往来社、1984年3月。ASIN B000J78OVQ。ISBN 4404012403。 NCID BN00172373。OCLC 11260668。全国書誌番号:84023599。
- 中国新聞社『歴史紀行 安芸吉川氏』新人物往来社、1988年6月。ISBN 4-404-01517-8。
- 光成準治 編『吉川広家』戎光祥出版〈シリーズ・織豊大名の研究 第四巻〉、2016年。ISBN 978-4-86403-215-5。