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吉川国経

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
吉川国経
時代 室町時代 - 戦国時代
生誕 嘉吉3年(1443年[1]
死没 享禄4年4月18日[1]1531年5月4日
別名 次郎三郎[2]、三郎[2]
戒名 正受院一株慶守[1]
官位 伊豆[2]治部少輔[1][2]
主君 室町幕府 足利将軍家
氏族 藤原南家工藤流吉川氏
父母 父:吉川経基[2]、母:佐波秀連
兄弟 国経吉川夫人尼子経久室)、
女(笠間刑部少輔室)、四郎
女(小河内清信室)、石経守[3][注釈 1]
女(綿貫忠澄室)、国衙光経[3]
女(多賀某室)、女(三須清成室)、
江田経純[3]、女(波根泰次室)、
筏経法[3]、女(気比大宮司某室)、
女(鷹司兼輔継室)
正室:高橋直信の娘
継室:小笠原越前守の娘
元経[2][3]大塚経長[3]経世[3]
女(福屋隆兼室)、妙玖毛利元就正室)
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吉川 国経(きっかわ くにつね)は、戦国時代武将安芸国国人吉川氏12代当主。

生涯

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嘉吉3年(1443年)、吉川経基の長男[1]として誕生。

永正6年(1509年)、家督を継いで当主となる[1]。永正4年(1507年)に周防国大内義興出雲国尼子経久室町幕府12代将軍足利義稙を擁して上洛した際には従軍し[1]、永正8年(1511年)の船岡山合戦にも参加した[1]

後に尼子経久が勢力拡大を図り大内義興と戦いを始めると、永正14年(1517年)から尼子氏に味方して大内氏の動向を伝えた[1]。また、経久の命により、毛利氏取り込みのために娘・妙玖毛利元就に嫁がせている[1]

大永2年(1522年)に長男の吉川元経が死去すると、嫡孫・吉川興経(千法師)の補佐・後見にあたった[1]

享禄4年(1531年4月18日に死去。大朝新庄の洞泉寺に葬られる。

関連作品

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脚注

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注釈

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  1. ^ 石(伊志)氏は永正年間の元経当主期から確認される親類衆で石村(現在の北広島町上石・下石・海応寺)を本拠としていた。[4]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k 阿部 & 西村 1990, p. 279.
  2. ^ a b c d e f 今井尭ほか編 1984, p. 333.
  3. ^ a b c d e f g 光成 2016, pp. 328, 吉川氏系図.
  4. ^ 木村信幸「戦国後期における吉川氏の権力後世―親類衆・奉行人を中心として―」『史学研究』259号、2008年。 /所収:光成 2016

参考文献

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  • 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 阿部猛; 西村圭子 編『戦国人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年9月。ISBN 4-404-01752-9 
  • 今井尭ほか編『日本史総覧』 3(中世 2)、児玉幸多小西四郎竹内理三監修、新人物往来社、1984年3月。ASIN B000J78OVQISBN 4404012403NCID BN00172373OCLC 11260668全国書誌番号:84023599 
  • 中国新聞社『歴史紀行 安芸吉川氏』新人物往来社、1988年6月。ISBN 4-404-01517-8 
  • 光成準治 編『吉川広家』戎光祥出版〈シリーズ・織豊大名の研究 第四巻〉、2016年。ISBN 978-4-86403-215-5