吉川広嘉
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吉香公園内の吉川広嘉像 | |
時代 | 江戸時代前期 |
生誕 | 元和7年7月6日(1621年8月23日) |
死没 | 延宝7年8月16日(1679年9月20日) |
改名 | 長松(幼名)、広佳(ひろずみ)、広純、広嘉 |
別名 | 左馬之助(通称) |
墓所 | 山口県岩国市横山の洞泉寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 毛利綱広 |
藩 | 周防岩国領主 |
氏族 | 藤原南家工藤流吉川氏 |
父母 | 父:吉川広正、母:竹姫 |
兄弟 |
夏姫、広嘉、就紀、毛利就信正室、 毛利就詮正室 |
妻 | 天長院(鷲尾隆量の娘) |
子 | 広紀 |
吉川 広嘉(きっかわ ひろよし)は、江戸時代前期の周防国岩国領3代領主。
生涯
[編集]元和7年(1621年)7月6日、第2代領主・吉川広正の長男として萩に生まれる。
寛永元年(1624年)、証人(人質)として江戸に上り、寛永7年(1630年)に将軍徳川家光に御目見した。同年、弟の千若(吉川就紀)が証人となり、帰国した。
寛文3年(1663年)8月28日、父の隠居により家督を継ぐ。生来病弱であったため京都で療養し、諸学と京風を身に着け、狩野探幽等とも交流があり、後年の錦帯橋架橋にも繋がる人脈を構築した。
領主としての治績は、瀬戸内沿岸二千町歩を干拓し耕地を拡大したこと、領札を発行したことがある。最大の治績は、延宝元年(1673年)、同2年(1674年)と連年錦川に架橋工事を行い、現在の形の錦帯橋を架橋したことである。特に延宝2年の架橋工事は緻密を極め、橋は以後第二次世界大戦後にキジヤ台風で崩壊・流失するまで一度も流失しなかった。
延宝7年(1679年)8月16日、死去した。享年59。長男・広紀が跡を継いだ。