吉川広逵
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 元禄8年7月4日(1695年8月3日) |
死没 | 正徳5年6月19日(1715年7月19日) |
改名 | 勝之助(幼名)、広逵 |
戒名 | 涼雲院玉顔元鮮 |
墓所 | 山口県岩国市横山の洞泉寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 毛利吉元 |
藩 | 周防岩国領主 |
氏族 | 吉川氏 |
父母 | 吉川広紀、石川義当次女喜井 |
妻 | 栗原忠良娘多喜 |
子 | 経永 |
吉川 広逵(きっかわ ひろみち)は、江戸時代中期の周防国岩国領5代領主。
生涯
[編集]元禄8年(1695年)7月4日、第4代領主・吉川広紀の長男として生まれる。元禄9年(1696年)7月13日、父が死去し、8月26日に家督を相続する。
わずか2歳で家督を相続したため、政務は後見人や家老によって行なわれた。このため、家老や家臣団の念願であった吉川家の家格昇格運動が本格化し、家老の今田忠仲によって運動が盛んに行なわれたが実現しなかった。なお、その一方で今田は長州藩の毛利本家との和解も推進している。
正徳5年(1715年)6月19日に死去した。享年21。7月23日、長男・経永が家督を継ぐ。